さらに、敗戦後の庶民的感性としては、(戦前)「騙されていた」という意識が強く、二度と戦争はご免だという気風が強まった一方、政治(権力)を敬遠するという気風が育ったことも事実である。
それは戦前の国家主義によって、国民各人がまったくモノも言えないように掠め取られ、苦渋を味わったという体験に照らせば、至極当然の、一種の自己防衛的本能に近かったのかもしれない。
この敬遠というのがミソである。政治に対して一定の距離を確保する。強く言えば「二度と騙されるものか」という根性に通ずるのである。これは全体主義や国家主義を警戒するのだから、民主主義に適っている。
最近でこそ「何々が一丁目一番地」という表現を政治家諸君が好んで使うが、大正時代以前に生まれた先輩たちは、「一丁目一番地=町内会」にすら嫌悪感を持つ人が少なくなかった。なぜなら町内会もまた戦時体制下、国家主義最前線の末端組織として、人々の自由をおおいに奪ったからである。
思うに戦後、自治体活動が容易に活発にならなかったのは、戦前戦中の苦い記憶が人々の脳裏にこびりついていたからであろう。そのような意識が薄くなったのは、戦争からかなり時間が過ぎた1980年代辺りである。そして対政治的敬遠が、対政治的無関心として大きくなったのも事実である。