文=奥井禮喜
「麻生氏の発言―立憲主義への無理解だ」(朝日社説8/2)、「麻生財務相発言 ナチスにどう改憲を学ぶのか」(読売社説8/3)。
さすがに自民党機関紙的(だと私は思う)読売社説も、唖然茫然としたか――首相経験者の言うことか。重要閣僚としての資質を疑う。国益も損ないかねない。傲りだ。(要旨)――と手厳しい。
麻生氏本人は「誤解を招く結果となった」と発言撤回した。その内容は、国家基本問題研究所シンポジウム(7/29)で飛び出したという。いわく、憲法改正論議は「狂騒の中でやってほしくない」。「ある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」。
まず思うに、麻生氏には過去にもたくさん失言・暴言と批判された発言がある。ところで、失言・暴言、あるいは妄言、迷言などなどと規定するのは、本人ではなくて第三者の社会的常識である。
第三者からみて、歴史認識がおかしい、不勉強、頓珍漢、間違いなどなどであっても、デカルト先生(1596~1650)がおっしゃったように、コギト・エルゴ・スム「我思う、ゆえに我あり」。つまり、(麻生氏の)意識の内容は疑いえても、意識する私(麻生氏)の存在は疑いえない。
存在する麻生氏の歴史理解は、クローチェ先生(1866~1952)がおっしゃったように、「すべての歴史は現在の生の関心から生まれる」から、第三者が何と思おうと、麻生氏は自分の生の関心を正直に語ったのである。
すなわち、現実に「首相経験者が言った」のであり、誰が何と文句をつけようと、ただいまも「重要閣僚」なのであり、国益を損なうのではなく「国益と思っている」のであり、正直なのだから「傲り」ではないのである。政治家は正直がよろしい。ただし、正直の頭に神が宿るとは思わない。