ワイマール共和国は、第一次世界大戦(1914開始)にドイツ帝国が破れ、1918年11月9日ベルリン革命によって生まれた。ワイマール憲法は翌年の国民議会で成立したドイツ共和国憲法である。近代民主主義憲法の一つの典型で、史上最大の民主的憲法と呼ばれた。帝国(君主制)が共和制に変わって、議会に基礎をおく政党政治が開始したのである。
しかし、1933年ナチスが政権掌握したことによって事実上消滅した。
少し補足する。第一次世界大戦は当初ドイツ軍優位に見えた。占領地域は広く敵国地域に入り込んだが結局動きが取れなくなった。報道は軍の厳重な統制下にあり、国民は最後の段階まで敗北するとは思わなかったのである。
国民生活が苦しくなり、戦争反対勢力・独立社会民主党が台頭し、戦争中にベルリンで40万人が参加するストライキ(1918)が決行された。
敗戦必至にもかかわらず海軍が捨て身の攻撃をすべしとして、艦隊に出撃命令を出したとき(1918.10)、水兵の反乱が勃発、数日のうちに全国に「労兵協議会」が誕生し実権を掌握した。ミュンヘンでも革命が勃発、ついにウィルヘルム皇帝が退位して革命が成立したのである。
新しい国づくりが開始するが、人々は敗戦と生活苦にあり、民主主義への心の準備はなかった。政争は止むことがなかった。社会民主党エーベルトが大統領に就き、内相プロイスや、M.ヴェーバーらが憲法作成に関わった。
戦争賠償金の過大な重圧、フランスが執拗にドイツに復讐しようとしたことなどが重なり、ドイツ人に偏狭な排外的国粋主義が育った。ナチスは、そのような内外事情において、やがて巨大な怪物として成長した。
つまりワイマール憲法は、敗戦後の狂騒のなかで生まれ、ナチスの狂騒のなかで発展することなく、ワイマール共和国に対する反革命の暴風に消えて行った。したがって正しくは、「狂騒のなかで」、それゆえ「誰も気づかないで、変わった」というのが痛恨の事実であった。
日本国憲法また敗戦の狂騒に生まれた。大日本帝国憲法改正の形式をとったが、本質は全然異なる(国家主義から民主主義へ)ものであり、戦後の歴史が遅々とはしていても民主主義革命が続いている。それゆえ、麻生氏が国家主義をめざしてナチス的反民主主義革命を妄想していると考えるしかなく、その発言は、バカに正直なのでもある。氏は民主主義の政治家ではない。