中国侵略の日本軍が「九一八事変」を起こしてから最後の日本戦犯の最終公判まで、古城瀋陽は劇的な歴史の流れを見守ってきた。
1956年6月、設立間もない新中国は特別軍事法廷を設立し、旧ソ連から引き渡された日本人戦犯36人の公開審判を行った。60年近くが過ぎた今、戦犯の法廷での懺悔と供述を再び直視することは、歴史を厳粛に振り返り、現実を冷静に思考することである。
鈴木啓久の案件は瀋陽特別軍事法廷で裁判された「1号大案」である。陸軍中将だった彼は、旧日本軍に河北省灤県潘家戴庄、遵化県鲁家峪で「掃討」を実施し、遵化や迁安などの県の長城沿線地域を「無人区」にするように指揮し、数々の残忍な事件を起こした。
法廷で鈴木啓久は、「村民を広場に集めて大虐殺した。乳児を母親から奪い取って落として死なせたり、妊婦の腹を切ったり、生き埋めにしたり、薪を集めて火をつけ焼死させたり、刀や銃などの武器を使ったりし、一気に村民1280人以上を殺害した。残忍な虐殺のあと、村全体の家屋を焼き、中の食料や服などの物資を奪い、村に『三光政策(殺しつくす、略奪しつくす、焼き払う)』を実行した。私は心から謝罪する」と供述した。
法廷での最後の陳述で、鈴木啓久は「私によって理由なく殺害され、平和な生活を破壊された人たちのことを思うと、心が砕けるほど辛い」と泣きながら話した。
前日本陸軍39師団中将・師団長の佐々真之助は法庭で、「襄樊作戦で、挺進隊を南漳県武安堰付近に派遣し、罪のない女性、子供、老人を12人殺害した。五家営村付近で住民18人を捕まえ、針金で串刺しにして殺害した。また、襄樊で30人以上の中国の住民を針金で縛って川に投げて溺死させた。そのほか、私の部下は女性を強姦し、輪姦して死なせた」と供述した。
佐々真之助は最後の陳述で「私が犯した罪は起訴状に書かれているより多い。私はここで、中国の人たちの前で頭を下げて謝罪する。どのような罰を受けるにしても法に服する」と述べた。
元731部隊第162支隊少佐支隊長の榊原秀夫は、法庭で次のように供述した。1945年3月、チフス菌を使って抗日中国人4人の生体実験を行った。1945年、彼の支隊は試験管870本のコレラ菌やチフス菌などの細菌を培養し、大量のネズミとノミを捕獲して繁殖させ、大規模な細菌戦の準備をした。
榊原秀夫は「私の罪行は、全世界の人たちが認める神聖な国際公法を踏みにじり、人道主義の原則に完全に違反するものである。私は中国と日本の人たち、全世界の平和を愛する人たちの前で深く謝罪したい」と話した。
前日本陸軍59師団中将師団長の藤田茂は法庭での最後の陳述で、「私の罪行は極めて厳重で、罪を認めることは生涯の問題である。命ある限り、被害者の心の声をしっかり胸に刻み続ける」と述べた。
藤田茂は服役し釈放されて帰国した後、自身の誓いの言葉を実践し、中日友好のために余生をかけている。彼は回顧に「この戦争は日本軍国主義が計画的に発動した侵略戦争である。中国の東北地方から海南島まで、日本軍国主義が侵略した地域の至る所に中国の人たちの血の跡がある。私たちはこの事をしっかり胸に刻まなければいけない。日本が中国を侵略したことは消し去ることのできない事実である」と記した。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2014年6月20日