とくに、情報化時代というご時世になると、いろいろな言葉が現れ、訳語の選択にも一苦労せざるをえなくなる。中国語にはカタカナという便利な、都合のよいツールがないので、外国の商品名の翻訳では名訳があるとともに謎訳もかなりあり、まさに玉石混交の感がある。ある日本の著名な自動車メーカーは、「ナショナリズムの高まり」のようなものでたたかれるのを避けるために、車種名をすべて外来語にしてしまったはいいが、以前の車種名に慣れきった中国人たちは、たいへんな頭の切り替えを強いられたようだ。しかし、それでも、私はなるべく不必要なゴタゴタを避けるために、外来語に切り替えるほうが賢明だと思っている。
そういうことで今回のセミナーでは、こういう些細なことも含めて、中国をよりよく外の世界に知ってもらうためにはどういう努力が必要かということが話し合われた。
まったくの私見ではあるが、私は思考の不断の変革を主張している人間であり、中国もやがては80年代、90年代に生まれた人たちが社会の主役を占める時代になるので、日本の同じ世代の人たちの感性、感受性を念頭に置く必要がある、と考えている。今回セミナーに参加した人たちは、偶然にもすべてがそういう考え方をもった人たちだったので、私は本当に勉強になったし、また、非常にたのしい一日だった。
話し合われた内容については、中国翻訳協会のウェブ上に公開されると思うので、ここでは省略するが、なかには日本人の方が実に上手に訳している例もあるので、われわれもこれまでより視野を広げ、改革・開放という時代のトレンドにふさわしい取り組みが必要であることも感じた。中国で仕事をしているといろいろしがらみもあって、気を使わなくてもいいことに神経をすり減らすことがある。たとえば、「失業者」という言葉であるが、一時帰休者とか、レイオフされた人たちとか、国のイメージにかかわることなので、気を使って訳していた時期もあった。しかし、国際化の中で、外国の投資を呼び込むためには、信頼のおける統計データを公表しなくては国際社会では相手にされない。「失業者」がいても恥ずかしいことではない。世界のいくつかの「先進国」と言われる国でも失業者はいるし、日本ではホームレス、派遣切りとかいったこともちゃんと報道されているではないか。その点、中国もますます透明性のある社会となっているので、われわれも仕事がしやすくなったような気がする。右顧左眄して、気を使うケースが減ったからだ。また、たとえば、「ややゆとりのある社会」という訳も、苦心の末に搾り出した智恵だが、日本ではいっそのこと「小康社会」と訳している。すると、言語学者の間では、「小康」という言葉の意味は、病気が治まって快方にむかうイメージの言葉だから、一寸違うのではという異論も出てくる。しかし、日本で一年も、二年も使っているとそれがもう定着してしまっている。「南水北調」という言葉も、日本のメディアが堂々と使ってくれているおかげで、われわれはわざわざ説明、注釈をつけなくて済むようになった。そういうことで、今回のセミナーでは日本のように「小康社会」という言葉を通用させてしまう手があるのだ、という考え方も共感を得た。