プラザ合意の効果は?
プラザ合意には5カ国が署名したが、深刻な経済危機が生じたのはなぜ日本だけなのだろうか。日本政府の不適切な対応の教訓については、ここで振り返っておく必要がある。
プラザ合意が生んだ最も直接的な影響は、米ドルに対する大幅な円高だ。1985年から1987年の間に、円は米ドルに対して50%以上の円高となった。しかしこれは金融市場と経済の変動を引き起こさず、日本経済は1990年まで高度成長を維持していた。
しかし同時に、過度な円高が経済の競争力を損ねることを懸念し、日本政府は信用貸付を緩めることで経済拡張の流れを維持しようとした。日銀の公定歩合は1985−87年の間に5%から2.5%に低下し、日本の株式市場と不動産のバブルが膨らんでいった。
日本当局は1989年に経済の過熱を意識し公定歩合を引き上げたが、これは過激なやり方だった。1989年5月から1990年8月までのわずか1年余りのうちに、日銀は公定歩合を2.5%から6%に引き上げた。資金の急激な引き締めにより経済のバブルが破裂し、日本経済は「失われた10年」に陥った。
日銀の黒田東彦総裁は2004年の「日本の為替政策の失敗による教訓」という文章の中で、「深刻なインフレと資産バブルを生んだのは円高そのものではなく、当時の政府の経済政策のミスによるものだった」と指摘した。
各界では今日も、プラザ合意とその後の日本の不況の関連性に関する議論が続いている。日本政府が円高を迫られたため、この合意がその後の危険な状況を直接引き起こしたという見方がある。また日本政府が経済情勢の変化を迎え足並みを乱し、間違った政策を立て続けに打ち出したことが、日本経済の低迷の根本的な原因だと分析する声もある。