プラザ合意の経験と思考
日本経済は1991年のバブル崩壊後に長期的な低迷に陥ったが、注意すべきは当時の日本が戦後の経済復興目標をほぼ達成していたことだ。1991年の日本の1人当たり名目GDPは2万8700ドルに達し、米国の2万4400ドルを上回った。日本は一躍、一流先進国の仲間入りを果たした。
また圧力を受けた日本の民間部門は、活路を見出そうと積極的に動き始めた。まず、日本企業は円高を利用し対外投資を大幅に拡大し、大量の生産能力を海外に移転することで、米国からの保護貿易主義の圧力を弱めた。
例えば長期的な日米の自動車貿易問題を解消するため、トヨタ自動車は米国で累計220億ドル投資し、米国で13万6000人の従業員を雇用した。この現地での生産は、貿易戦争のリスク解消を促し、米国人消費者の日本ブランドへの承認を広めた。
次に、円高と貿易摩擦を受け、日本企業はモデルチェンジ・アップグレードと技術革新を迫られた。「メイド・イン・ジャパン」は一般的な製造業から、ハイテク・高付加価値製造業へのモデルチェンジを加速した。また日本企業のコスト削減と効率向上による「リーン生産方式」も、世界企業が学習する手本になった。
日本経済はゼロ成長の罠に落ちたが、民間部門の世界における競争力は弱まらず、むしろ強まった。バブル崩壊後の1990年代と今世紀初頭、自動車やウォークマンなどの日本製品が、依然として世界を風靡していた。
キヤノングローバル戦略研究所の瀬口清之研究主幹は、新華社の記者に対して「日本企業はむやみに値下げによって市場シェアを拡大するのではなく、意識的に製品の販売を制限し、質向上とコスト削減に力を注ぐことで利益率を大幅に高めた」と述べた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2018年8月20日