第二次世界大戦終了後、日本が受諾したポツダム宣言の中には、「戦勝国は自国の捕虜を虐待した戦争犯罪人に対し、自国で厳重な処罰を加えても良い」とある。しかし、中国はその頃、内戦が激化してきた為、日本の戦犯を裁く余裕など無かった。中国に捕虜として捕らえられていた日本の戦犯はソ連軍によってシベリアへ連行され、監禁と強制労働に服されたのである。中華人民共和国建国後の1949年12月、毛沢東主席はソ連を訪問しスターリン書記長と会見した。この時、毛主席はシベリアに抑留されている日本の戦犯を中国に引き渡し、中国が自国の法で処分を下すと提言した。1950年、ソ連はこの要求を受け入れた。
1950年7月18日、東北人民政府の陳曦外交局長は、中国政府を代表し、ラズドリナヤ川流域でソ連から969名の日本戦犯の引渡しを受けた。そして、思想教育など中国の日本戦犯に対する「改造」政策が正式に始まったのである。
撫順戦犯管理所
1950年7月下旬、日本戦犯は撫順戦犯管理所に連行された。収容された戦犯は、罪の意識があまりにも希薄な者や罪の深さを認識し厳しい処罰が下されることに怯えるものと様々だった。生きて日本に帰れるかどうかも分からず、極限状態に陥った人々は自暴自棄になったり、反抗的な態度を取ったりしていた。彼らは疫病の予防注射を「細菌兵器の実験」だと言い、お風呂を処刑前の「お清めの儀式」だと言った。コウリャンを与えても食べず、白米が食べられないのなら食べないほうがましだと講義した。また、陸軍の広瀬三郎中佐らは7人で管理職員事務所を襲撃し、右翼団体「黒龍会」は中国に残留していた日本人が電気修理を行なうというチャンスを利用し、2度も脱獄未遂を犯した。日本戦犯の思想教育は複雑で困難な問題であり、中国の国際関係や対外的な面子にも大きく影響するものだった。
周恩来総理
周恩来総理は、「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない。しかし、それでも私たちは彼らを「改造」し良くしなくてはいけない。彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう。日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べている。
人道主義の基本理念と政策原則