決断力を欠く政府と秩序のある国民 日本式「合成の誤謬」

決断力を欠く政府と秩序のある国民 日本式「合成の誤謬」。 大地震に対し、日本社会は平静かつ整然とし、人々は自己犠牲の精神を示した。しかし、日本の人々は遺憾にも、原発事故の予防と対応において、先見性と判断力に欠けた決定機関とある種の即断性を欠いたメカニズムを目の当たりにすることになった…

タグ: 地震 決定力 政府 秩序 国民 日本 合成の誤謬

発信時間: 2011-03-29 10:26:21 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

客観的にみれば、千年に一度といわれる大地震に対し、日本社会は平静かつ整然とし、人々は自己犠牲の精神を示した。原子炉に果敢に挑む英雄たちの存在はその明らかな証拠である。しかし、日本の人々は遺憾にも、原発事故の予防と対応において、先見性と判断力に欠けた決定機関とある種の即断性を欠いたメカニズムを目の当たりにすることになった。

「日本はどうしたんだ?」これは新たに提起された問題ではない。1990年代にバブルが崩壊して以降、しばしば問われてきた問題である。経済のミクロレベルを見ると、日本経済はそれほど「ひどい」はずがなく、十数年も低迷するとは考えられないというのがこの質問の真意である。確かに、国民の質、企業管理能力、企業家のイノベーション能力、日本産業の世界産業チェーンにおける地位を見ても、日本経済がこのようにひどいはずがない。その原因は政府の決定システムにある。実際、バブル崩壊後20年の間に、景気回復の兆しは見えていたが、政府の不適切な操作が経済成長を妨げてしまっている。

原発事故に対する政府と電力会社のでたらめな対応は、冷静で秩序のある国民とは対照的である。さらに言えば、日本のマクロレベルは非常に強いが、マクロ(決定)構造はお世辞にもほめられたものではない。これは「合成の誤謬」によく似ている。

合成の誤謬とは一種の錯覚作用であり、全体の一部がある性質であれば、全体もその性質であるというというものである。例えば、「ある自動車の一部の部品の質が素晴らしければ、その自動車の質が素晴らしいように思う」というものだ。過去十数年、日本経済がある種の合成の誤謬を演じていたのだとしたら、今回の地震で明らかになった日本社会のミクロレベルとマクロ(決定)レベルの違いも、日本式の合成の誤謬を再度示したものであるといえる。(文=趙偉)

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年3月29日

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