捕虜になった時わずか17歳だった
ラルフ・グリフィス氏(Ralph Griffith)は従軍してまもなく部隊と共にフィリピンに渡った。三ヵ月後にコレビドール島で日本軍の捕虜になった。その時グリフィス氏はわずか17歳だった。捕虜になった時まだ歳若く気力もあったので屈辱と失望を感じたが、それは悪夢の始まりであり更に大きな災難が襲う事はまだわからなかった。
「鳥取丸」に乗り死神と肩を摺りあわせてすれ違う
捕虜になった後、グリフィス氏はフィリピン・カバナトゥアン捕虜収容所に六カ月間収容されたが、ある日突然日本人から他の収容所に送ると知らされる。翌日収容されていた約2000名の捕虜と共にマニラ埠頭に連行され、ここで「鳥取丸」という名の古い貨物船に乗せられる。その後やはり他の捕虜と共に汽車に乗せられて奉天捕虜収容所にやって来た。
グリフィス氏の地獄の生活
グリフィス氏ら8人の戦争捕虜は一緒に狭いところに閉じ込められた。日本人は彼らにたった一枚の薄いかけ布団を与えたのみだった。彼は回想して次のように言う、「気温は非常に低く、時には零下40度にも達した」「毎日の暖房用の石炭はバケツ二杯のみでいつもとても寒かった。食事はひどいもので、時にはこのひどい食事さえ与えられない事があった。毎日一杯の飯と一杯の水だけだった。時々大豆を与えられた。あるときは収容所に迷い込んできた野良犬を食べた事もあった。」更に「先に死んでいくのは背の高い者で、小柄な者は幸運にも生き残る比率が高かった」とも言う。また、記憶では日本人に機械工場で日に12時間働かされたが、「時には何もしなくてもよい日」もあって、「その時は大部分の時間を食べ物の話に費やした」。
捕虜収容所の病院は必要な医療条件を全く備えていなかった。グリフィス氏は歯を抜いたときの次第を語る。「下の歯を抜いたときは麻酔がなく、彼らはメスを使って歯茎を引っぱって歯を切断した。非常に痛かった。私は椅子をしっかりと握って、後ろから一人が私の頭を押さえつけていた。ここで虫垂炎になった者がいたが、日本人の医者は麻酔を打たずに手術を行なった。手術が終わるとすぐに収容所に送り返し、自分で傷口を閉じるようにさせていた。」
生体実験が行なわれたが、日米は認めていない
「看守は非常に下劣で卑しく、歩く姿が気に入らないというだけで銃を使って打ちつけた。私も一度彼らが持って歩いている刀の峰で打ち据えられ、重い革靴で何回も蹴りつけられた。」彼の記憶によると収容所内では人体実験も行なわれた。しかし今日に至るまで日本と米国の政府はいずれもこの事を認めていない。
「日本人は中国人を使った多くの生体実験をした。米国人も同じ扱いを受けた。注射をされたが何を目的としたものだったのか誰も知らない。注射のあと発病した者もいた。私は採血された事があったが注射が原因で発病した事はなかった。後には腕の長さや胸囲、頭の周囲の測定を受けた。まだ生きている中国人に対して解剖を行なった。フィリピン人を使い突撃刺殺の練習台にした。」彼は更に言う、「ある男の子が指を伸ばして勝利の意思表示をした。それで彼らはその子の指を切り取ってしまった。日本人は捕虜を水の中につけたままにしたり、大きな音のする環境の中に入らせて耳を損傷させたりした。一人の子どもを捕まえていろいろな事をさせようとしたが嫌がったので太陽の下で三日間放置した。そののち看守に向かってつばを吐いたので、この子どもを刺し殺してしまった。」
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年7月2日