ドイツ人医者のドクター・ミラーとの縁
内戦が終わった後のことです。ある日、ドクター・ミラーに話があると呼ばれました。私が行くと、ドクター・ミラーは大きな木の根元に私を座らせ、こういうのです。「私と結婚してくれないか?」と。私は頭がぼうっとなりました。当時、私はまだ17歳で、いつか日本に帰れる日を心待ちにしていたのです。私はドクター・ミラーに「日本に帰るつもりだ」と伝えると、彼は私の気持ちを察してくれたようで「そうだね。君は日本に帰るべきだ。じゃあ今のことはなかったことにしよう」と言ってくれました。
私は以前の勤務先に戻され、上層部の年輩軍人の医療ケアに携わりました。ある日、ドクター・ミラーが延安にいた時から知り合いだというある政治委員の夫人が、ドクター・ミラーの上司である李資平部長とこんな会話を交わしたそうです。「ドクター・ミラーはいつまで独身でいるつもりなのかしら?」「日本人の看護師の娘が好きだったみたいだけど、日本に帰ってしまったらしい」「日本に帰った看護師?名前は?」「中村京子っていう看護師だよ」「中村京子?あら、私、ついこないだ会ったわよ」。こんなわけで、私はドクター・ミラーの勤務先である病院に異動させられることになったのです。そして1949年、建軍節(人民解放軍記念日)である8月1日の前日、天津市で私たちはささやかな式を挙げ、夫婦となったのです。
1972年、日中国交正常化により、私は夫であるドクター・ミラーと、間に生まれた2人の子どもと共に日本に帰国し、福岡の父母を訪ねることができました。実家には10日間ほど滞在し、東京にも行きました。夫は中国の肝臓病の予防・治療を研究していました。ウイルス肝炎研究の権威である西岡久寿弥教授からもらったB型肝炎の試薬を持ち帰り、北京人民医院で使ってみたところ、とても高い効果が現れました。「中国は人口が多すぎる。日本にその都度取りに行くわけにはいかない」と思った夫は、中国国内で研究開発することを申し入れ、開発に成功しました。その2年後には、B型肝炎のワクチンの研究開発にも成功したのです。
一生中国に住み続ける