今から68年前、1945年8月6日と9日、アメリカは日本の広島県と長崎県に原子爆弾を投下した。そのわずか数日後の15日、裕仁天皇(昭和天皇)は「無条件降伏」を表明した。21万人に上る原爆の犠牲者に対する慰霊祭や平和祈念式典は今日に至るまで、世界各地で行われている。
軍事的或いは道徳的にアメリカによる原爆投下は理屈的に間違っていなかったのかどうかをめぐる論議は絶えず巻き起こっている。しかし、一方で、当時の歴史の真相は人々に忘れ去れようとしている。当時、日本も原子爆弾の製造を計画し、第二次世界大戦に突入すると、より一層研究開発に力を入れていたのである。核兵器を保有しようとしていた日本の野望は、十分なウランとプルトニウムを手に入れることができなかったことから、志半ばでくじかれたのだった。ドイツ紙『ディ・ヴェルト』電子版が15日付で報じた。
◆2つの原爆開発計画が同時進行
1938年12月、ドイツの化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンによって原子核分裂が発見されてから、世界の各先進国の化学者や物理学者らはすぐさま、この核分裂は軍事兵器として利用できることに気づいた。日本もまた例外ではない。日本の物理学者である仁科芳雄は1939年の時点で既に、核分裂の軍事利用の可能性について提起している。1941年、仁科は政府の指示を受け、核兵器の研究と製造に着手した。
仁科の研究と同時に日本海軍も独自で核兵器の研究を始めていた。1943年3月、日本海軍は研究報告で、原子爆弾の製造が理論上は実行可能であるものの、「アメリカをもってしても、戦争で実際に核兵器を投入することは極めて難しい」との見方を示した。これにより、日本海軍は核兵器プロジェクトをそれ以上進めることはなかった。