これが戦前のいわゆる「天皇制軍国少年少女」として褒め称えられる人間を作りあげたわけですが、そのような人間が、そして人格が、普通の人間にもどることがどれほど大変なことか、今の私たちからは想像を絶することでしょう。したがってこのように「鬼から人間に変わった」事実を、私は第一の「奇蹟」だと考えます。
しかしこのような「変身」を実現した、あるいは実現させた契機、環境というものがありました。それは冒頭で述べた被害者としての中国人の信念に基づく粘り強い厚情に満ちた真剣な働きかけ、教化であったわけです。これを私は第二の「奇蹟」だと考えます。 もちろん、第一第二というのは決して優先順位を言っているわけではありません。極端な言い方をすれば、この戦犯たち全員が管理所に収容された当初、最も恐れ絶望していたような、戦犯処刑といったことが行われていたとしたら、そこで事態は「おしまい」だったわけですから、中国人の怒り、憎しみ、恨みを超えた努力こそが、第一の奇蹟だったかもしれません。他方、働きかけられている日本人の側が、いつまでも軍国主義に凝り固まって自らを変えようとしなかったなら、やはり奇蹟は起こらなかったのですから、日中双方の「情と理」の交流交換と理解のし合いのトータルな結果こそが、奇蹟を生み出したと私は考えています。私たちの歌の言葉で言えば、「許しの花」が咲きほこったのです。
(三)帰国後の元戦犯たちの働き―「日中交流功労賞」なんてものがあったなら
中国側の厚情と扱いについて、そしてそれによって感動し自らを「変身」させようと努力した日本人の涙ぐましい努力については、彼ら自身のたくさんの証言がありますので、ここでは書きません。ここで最後に言いたいのは、この人たちが全員無事に帰国されてからの実に真剣で献身的な、加害責任を基盤とした反戦平和と日中友好のための活動であります。それは「言うは易く行うは難い」刻苦奮闘の軌跡でありました。私はこの人たちのこのような活動自体を「第三の奇蹟」とも言うべきものだと考えています。
彼らは1956-64年にかけて帰国したのですが、当時は日中関係は正常化しておらず、それどころか冷戦体制の下、反共反ソ反中国の大合唱の最中だったのです。常に警戒され監視されるような状況でした。そうした政治状況の下で侵略戦争とそこでの加害の責任を認めず、反省せず、謝罪も贖罪もしないということが当たり前だという気持ち、精神が日本人の間に定着してしまったのです。それがいまだに、いやますます強まっていることは誰もが知っていることです。