1984年の3000人訪中団が植えた「種」、日本各地で開花

1984年の3000人訪中団が植えた「種」、日本各地で開花。 1984年秋、3000人の日本の若者が招きを受けて中国を訪れた。訪中した日本の若者の多くはすでに、50歳を超えている。この訪中体験は彼らに何をもたらしたのか。歴史の瞬間を目の当たりにした彼らは今、何をしているのだろうか…

タグ: 訪中団 若者 帰国

発信時間: 2015-10-24 09:14:28 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

3.訪中が植えた中国の「種」

十川美香氏との面会は、東京永田町付近のオフィスビルで行われた。十川氏は、北京で開かれた「中国スマート都市国際博覧会」に参加したばかりだった。十川氏の属する日中経済協会は、日中の経済貿易協力の推進役を担っている。十川氏の仕事は、中国と深くかかわり、中国政府や企業との交流や協議を通じて具体的なプロジェクトを実現することだ。十川氏は30年余りにわたって、中日両国の間を行ったり来たりしてきた。

十川氏が中国を訪れたのは1984年が初めてではない。1980年から1982年まで、十川氏は、北京語言学院と南開大学に相次いで留学していた。十川氏によると、日本人と中国人は当時、着るものも使うものも異なり、日本人は口を開くとすぐに日本人だとわかってしまった。当時は外国人の移動も自由ではなく、省をまたいで移動する際には、学校の外事事務所で「旅行証」を申請し、何日から何日までどこに行って何をするのかを説明する必要があった。1984年に中国を訪れた際に印象的だったのは、「中国人が色彩を欠いた『人民服』を脱ぎ捨て、国全体が生き生きとし始めていた」ことで、国家や個人の暮らしが変化することへの期待が感じられたことだったという。

7月下旬に大阪で取材した大薮二朗氏も中国から帰国したばかりだった。大薮氏はまさに大阪人らしく、よく笑う人だった。連絡した時に「記憶力がよくない」と言われた通り、当時の状況を尋ねると「忘れた」との答えだった。だが「記者は嫌い」というそぶりは微塵もなく、食事をおごってくれ、大阪の天満宮にも連れて行ってくれた。

大薮氏は現在、大阪で語学学校を営んでいる。学生の9割は中国人だ。学生はここでまず日本語を学び、それから日本の入学試験を受ける。東大や早大などの名門大学に学生が受かると、大薮氏は嬉しくてたまらないという。

十川氏や大薮氏と同様、小野寺喜一郎氏も中国と縁のある仕事をしている。日本人大学生を連れて中国を訪ねたり、日本に来る中国人の学生を受け入れたり、両国の大学の交流活動を組織したりするため、小野寺氏は今も中国と日本の間をひっきりなしに往来している。

市会議員の大平敏弘氏は一方、故郷の三豊市の発展のために働いている。1984年以後、中国には何度か足を運んだ。回数は多いとは言えないが、忘れがたい記憶として残っている。2007年6月、当時の胡錦涛国家主席が、1984年の訪中団員とその家族200人余りを北京や上海、蘭州に招いた。大平氏はこれに出席し、その時の集合写真を今でも大事に保存している。「中国は大きく変化した。1984年には中国にはまだ義務教育がなく、通訳なしには現地の人と交流できなかった。今は流暢に日本語を話す中国人がたくさんいる」と大平氏は感嘆した様子だった。

荻田氏はここまで紹介してきたほかの人々とは違い、1984年の訪中がこれまで唯一の中国への旅だという。荻田氏は帰国後、勤務先の四国電力に戻り、今でも同じ職場に勤務している。「中国に行ってからもう30年以上経つが、中国のことはずっと注目してきた。中国から来る視察団の世話をしたり、中国人留学生を家に泊めたりするのが、私なりの中国との付き合い方だ。中国は私の心に種を植えた」。上海から高松への直行便が開通してから、退職したら妻を連れて中国を見に行こうかと考え続けているという。

     1   2   3   4    


TwitterFacebookを加えれば、チャイナネットと交流することができます。
iphoneでもチャイナネット!

日本人フルタイムスタッフ募集    中国人編集者募集
「中国網日本語版(チャイナネット)」の記事の無断転用を禁じます。問い合わせはzy@china.org.cnまで
 

コメント

コメント数:0最新コメント

コメントはまだありません。