1984年の3000人訪中団が植えた「種」、日本各地で開花

1984年の3000人訪中団が植えた「種」、日本各地で開花。 1984年秋、3000人の日本の若者が招きを受けて中国を訪れた。訪中した日本の若者の多くはすでに、50歳を超えている。この訪中体験は彼らに何をもたらしたのか。歴史の瞬間を目の当たりにした彼らは今、何をしているのだろうか…

タグ: 訪中団 若者 帰国

発信時間: 2015-10-24 09:14:28 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

4. 中国と日本の実力の逆転をどう考えるか

当時の資料をひもとくと、多くの日本の団体が訪中目的として「中国による4つの近代化の実現を助ける」「中国の生産技術と管理水準の向上を助ける」「中国を実地視察して問題解決の方法を探る」「発展途上国を援助する」「中国の日本語教育事業を支援する」などを挙げていることがわかる。1984年、国民の平均月収が100元に満たなかった中国は、間違いなく日本の援助と支援の対象だった。2008年になって日本政府は中国に対する有償援助をやめた。2010年、中国はGDPで日本を超え、世界第二大の経済体となった。日中の国家の実力の逆転を、中国の巨大な変化を目の当たりにしてきた人々はどう考えているのだろうか。

小野寺喜一郎氏の見方は比較的典型的なものといえる。小野寺氏は、人口が多く、土地が広く、物資の豊かな中国がGDPで日本を超えるのは当たり前なことだと考えている。日本人の中にはこれを悲観する人もいるだろうが、多くの日本人はこの逆転を受け入れがたいものとは思っていない。なぜなら中国の急速な発展と台頭こそが、日本により多くのビジネスチャンスと巨大な市場をもたらすものとなるからだ。1990年代中後期から、中日関係は、「援助と被援助」の関係から「ビジネス協力」の関係へと転換し始め、中国大陸部には中日の合弁企業が出現し、低迷していた日本経済に活力を注入するようになった。

荻田氏は、日本の将来の発展にあたっては今後、個々人の能力がより大切になってくると指摘する。技術を磨き、日本人にしかできないことをするのが発展の道だ。日本人は転職をしたがらない。現状に甘んじていると言うこともできるが、転職しないでがんばるからこそ、自らの職業能力を深めることができるとも言える。日本の「匠の精神」と中国の「巨大な市場」とが結びつけば、両国に恩恵がもたらされることとなる。

中日両国の国交正常化から43年が経った。その間には「蜜月」もあったし、「氷河期」もあった。十川美香氏は、仕事の関係でここ数年、中国と頻繁に連絡を取ってきた。「喜びもあったし、摩擦もあった。しかし問題に直面し、これをともに解決していくことで、信頼関係はゆっくりと醸成される」。十川氏は、政府の間の関係もこれと同じで、両国関係の現状がいかに生まれたかを問うと同時に、これを新たなスタート地点として、修復と改善を模索することこそが解決の手立てとなる。

「中国の習近平国家主席と日本の安倍晋三首相は昨年11月と今年4月の2回にわたって会談を実現した。私はこれを、中日関係が改善し始めたシグナルだと考えている」と十川氏は語る。「改革や挑戦を絶えず進めることが中国人の優れたところだ。日中間の経済交流を通じて、双方に改革意識が生まれることを願っている」

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2015年10月24日

 

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