7.中国におけるバドミントンの「南強北弱構造」
中国での卓球の「北強南弱構造」と真逆なのが、バドミントンの「南強北弱構造」である。
バドミントンは1988年ソウル五輪で公開競技種目となり、1992年バルセロナ五輪で正式競技種目となった。その後のほぼ30年間の五輪大会で、バドミントンは合計39枚の金メダルを出した。中国はそのうち51.2%にあたる20枚をも獲得した。バトミントンは中国にとってオリンピックで金メダルを稼げるもうひとつの強い競技種目であった。
五輪史上中国の計22人のバドミントン金メダリストの出身を調べると、今度はなんと南部出身者が多かった。具体的には、長江以北が僅か5人で、長江以南が17人に上った。すなわち中国バドミントン五輪金メダリストの出身地では南部は77%、北部は23%となっている。
視野を中国からアジアに拡げると、オリンピックのバドミントン金メダル数は累積で中国のほかインドネシア8枚、韓国6枚、日本1枚、中華台北1枚となっている。オリンピックのバドミントン金メダルにおけるアジアの国と地域の獲得率は92%にものぼる。ここに、もう1つアジアにおける人的交流の道が見えてくる。
中国でのバドミントンの発展は、インドネシア華僑の貢献が大きい。1954年王文教ら4人の華僑がインドネシアから中国に帰国したことが、スポーツとしてのバドミントンの中国展開の始まりであった。1960年、インドネシアから湯仙虎、侯家昌、方凱祥、陳玉娘ら青年選手が相次いで帰国したことが、中国のバドミントンパワーのさらなるアップにつながった。これらインドネシア華僑が選手として、またコーチとして中国のバドミントンの礎を築いた。
上記に鑑みれば、これら華僑のルーツにあたる中国の南部でのバドミントンの人気と強さは当然であろう。