第1回調査の結果:1885年9月22日、沖縄県令(後の知事)西村捨三は内務省の命令で調査を行い「本県と清国福州の間に散在する無人島の調査に関し、在京の森大書記官が受けた内命に従い調査を行った。概略は添付書類の通り。久米赤島、久場島および魚釣島(注:日本のいわゆる「久米赤島」は赤尾嶼、「久場島」は黄尾嶼、「魚釣島」は釣魚島のこと。日本語の文法では目的語のあとに動詞がくるので、中国の釣魚島は「魚釣島」と改竄されたのである)は古来本県におけるこれら島々への呼称であり、これら本県所轄の久米、宮古、八重島などに接近する無人島嶼を沖縄県の管轄とすることになんら異議はない。だが同島は以前報告した大東島(本県と小笠原島との間に位置する)と地形が異なり、中山伝信録に記載される釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないかとの疑いがないわけではない。もし同一である場合は、すでに清国も旧中山王を冊封する使船の詳悉するのみならず、それぞれ名称も付しており、琉球航海の目標としていることは明らかである。従って今回の大東島同様、調査時直ちに国標を建ててもいくらか懸念が残る」と述べた。(日本外務省編纂『日本外交文書』第18巻「雑件」、日本国際連合協会発行、東京、1950年12月31日、574ページ)。これは少なくとも、これらの諸島がおそらく中国の領土であることを当時沖縄県がすでに確認し、その占領によって中国を刺激することを懸念していたことを示している。
だが山県有朋内務卿はなお断念せず、再調査を行ない、日本の「国標」の建設を要求した。そのいわゆる主たる理由は、これらの島々が「清国に所属する痕跡がまだ見つからない」(現在もなお日本はこの誤った主張を釣魚島占有の口実としている)というものだった。だが再調査は逆に日本側に軽挙妄動を慎ませる結果となった。日本のこうした動きに、中国新聞界がすでに警戒を高めていたからだ。1885年9月6日(清光緒十一年七月二十八日)付「申報」は「台島警信」の見出しで「台湾北東の島に日本人が日本国旗を掲げ、占拠する動きを活発化している」と報じ、清政府に注意を喚起した。泥棒をするのはうしろめたいものだ。日本政府は釣魚島占拠に向けて秘密上陸調査を推し進める一方で、中国紙の報道などを通して中国側の反応を緊密に窺っていた。