1月14日、「開拓日」より「窃取日」と呼ぶ方が的確だ

1月14日、「開拓日」より「窃取日」と呼ぶ方が的確だ。 周知の通り、釣魚島及びその周辺諸島は古来、中国固有の領土であり、1895年以前も「無主地」などでは全くなかった。他国の領土を盗み取る行為を「開拓」と呼ぶとは荒唐かつ横暴だ…

タグ: 1月14日 日本 釣魚島 窃取日

発信時間: 2011-01-17 14:37:35 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

第2回調査の結果:1885年10月21日、井上馨外務卿は山県有朋内務卿に宛てた書簡で「これらの島々は清国国境に近い。以前踏査を終えた大東島と比べ、面積の小さいことがわかった。とりわけ清国も島名を付している。かつ、最近清国紙などは、わが政府が台湾付近の清国所属の島嶼を占拠しようとしているとの風説を掲載し、わが国に対して猜疑を抱き、清政府にしきりに注意を促している。この時期に公然と国標建設などの措置に出れば、必ずや清国の疑惑を招く。従って、当面は実地調査を行い、その港湾形状ならびに土地物産開拓の見込みの有無を詳細に報告させるのみに止め、国標を建て開拓などに着手するのは、他日の機会を待つべきだ」としている。(『日本外交文書』第18巻、575ページ)

この調査によって、台湾の附属島嶼である釣魚島が「清国所属」であることが一層確認された。まさにこうした背景から井上馨は山県有朋に、中国側の反対を招かぬよう、秘密調査は公にせず、陰で実施するべきだとわざわざ念を押したのである。

第3回調査の結果:1885年11月24日、沖縄県令・西村捨三は内務卿命令による調査結果を報告し「以前報告した通り、所管の無人島に国標を建設する件は、清国と全く無関係とは限らない。万が一紛糾が発生した場合、いかに処置すべきか、速やかに指示を仰ぎたい」。(『日本外交文書』第18巻、576ページ)

甲午戦争(日清戦争)前、日本内務省は中国と釣魚島を争奪する機はまだ熟していないと考えていた。1885年12月5日、山県有朋は外務卿と沖縄県令の報告に基づき、以下の結論を下した:「秘第128号内の無人島へ国標建設の件に付いての内申。沖縄県と清国福州との間に散在する無人島嶼調査の件は、別紙に記した通り。沖縄県令より上申あり、国標建設の件は清国と島嶼帰属の交渉に関わり、双方に適切な時機があり、目下の情勢では見合わせるべきと思われる。外務卿と協議の上、その旨沖縄県令に指示する」。(「沖縄県と清国福州との間に散在する無人島へ国標建設の件」、日本内務省『公文別録(明治15-18年)』」第4巻、明治18年(注:1885年)12月5日)

注意に値するのは、「日本が台湾付近の清国所属島嶼を占拠しようとしている」との風説の中国紙掲載に関する井上馨の言葉は、以下の重要な事実を実証している点だ。第1に、少なくとも甲午戦争の9年前に日本政府はすでに釣魚島が「清国所属島嶼」であることを知っていた。第2に、甲午戦争前、日本が釣魚島を占拠しようとしているとの「風説」は日本にとって不利であり、日本側は国標の公然たる建設を見合わせざるを得なかった。第3に、日本は後に占拠の機会を窺うため、前々から企んで釣魚島の秘密調査を行っていた。このため甲午戦争前年の1893年まで、釣魚島の沖縄県編入を沖縄県令が求めても、日本政府は「同島が帝国に属すか否かはなお不明確」との理由で拒絶していた。当時日本は密かに中国に対する戦争準備を進めており、釣魚島に手を出して野心がばれることを懸念していたのである。

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