日本留学、青年周恩来が革命に身を投じる契機に

日本留学、青年周恩来が革命に身を投じる契機に。 1917年9月、抜群の成績で天津南開中学を卒業したばかりの周恩来は、求学報国という壮大な理想を抱きながら、日本行きの汽船に乗り込んだ。しかし、わずか19歳の周恩来にとって、日本での学問探求の道は決して平坦ではなかった…

タグ: 軍閥 混戦 帝国主義  列強 周恩来 

発信時間: 2011-06-27 13:51:39 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

2月11日は中国の旧暦の一日。前日の日記のなかで、「身は他郷にあり、佳節を迎えいつにもまして身内が偲ばれる」と書いた周恩来は、決して郷愁に浸っているのでなく、「考えるとすれば、すぐにいま最も新しい思想について考える、やるとすれば、すぐにいま最も新しい事をやる、学ぶとすれば、すぐにいま最も新しい学問を学ぶ」との志を立てていた。

「周恩来―19歳の東京日記」の編者である日本の学者、矢吹晋氏は書のなかでこう分析している。「周恩来が日本に留学していてころはちょうどロシア10月革命の後、中国の五四運動の前の激しく変動していた時代だった。青年周恩来は学業では余り順調ではなかったものの、むしろ国内外の先進的思想に接触するようになった。周恩来は日本に行った後に雑誌『新青年』を読み始めるようになり、じきに新文化運動と文学革命理論に傾倒していった。留学の初期は日本語の水準にある程度の限界があったので、ほとんど毎日のように中華青年会館あるいは東亜学校に入り浸って、中国の新聞や雑誌を読んでいた。1918年上半期以降、マルクス・レーニン主義に関心を寄せ、京都大学教授の河上肇の「貧乏物語」や高徳秋水の「社会主義の真髄」など、日本早期のマルクス主義を宣伝する著作を読むようになり、後に、河上肇がマルクス主義を広めるための月2回発行の刊行物「社会問題の研究」の熱心な読者となった。

東京で暮らしている間、周恩来は北洋軍閥政府が日本と主権を喪失する国辱的な条約に調印したことに抗議して逮捕された事件を聞き、その後、愛国留学生の団体「新中学会」に参加するとともに、帰国して革命を発動するという思いが次第に芽生えていった。1919年、「ベルサイユ条約」の調印が最終的に、日本での学業を放棄し祖国に戻るよう周恩来に促したのである。天津に着くと、すぐさま勢いすさまじい五四運動に身を投じ、ここから革命の道を歩み出した。帰国する1カ月前の4月5日、周恩来は京都郊外の嵐山に遊び、有名な「雨中嵐山」を詠んだ。その最後の2句は、周恩来がすでに光明、つまりマルクス・レーニン思想を探しあてたことを示している。

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年6月27日

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