「コミュニケーションや連携がスムーズにできない事は、世界のすべての企業が抱えている問題だ。しかし、日本ではこの状況がより普遍的で著しい」とコンサルティング会社であるマッキンゼー・アンド・カンパニー東京支社のプリンシパル、ピーター・ケネバン氏は指摘する。「企業の内部であってもコミュニケーションの溝がたくさんあり、イノベーションビジネスの意義が失われてしまう」。
1994年、ソニーと任天堂が共同で打ち出す予定だったPlayStationの企画が白紙になった。エンジニアの久多良木氏の訴えで、ソニーは企画を推し進めることを決定し、2000年にはPlayStationはソニーの利益の1/3を稼ぎ出すようになった。PlayStation2の発売が発表されると、1分間に10万件と予約が殺到し、システムがパンクしたために、ソニーはいくつかの予約サイトを閉鎖したほどだった。
PlayStationはソフトとハードの連携が完璧で、十分にiTunesと対抗することができた。しかし、この頃にはゲーム部門はソニーの中で独立した勢力を築いていたために、ソニーの他部門への技術が流失することを厳しく規制していた。他部門が同じプラットフォームで技術協力することを禁止したのだ。
PlayStation3まで来ると、このゲーム機にはあまりにも大きな期待が寄せられるようになった。ブルーレイに対応し、ネットワークを利用して様々なサービスを利用する事ができ、リビングをエンターテイメントの中心にすることを目指していた。ソニーとPlayStationは切っても切り離せない状態だった。しかし、絶好のチャンスを逃したPS3はその期待を背負いきれなかった。当時、マイクロソフトのXbox360も世に出てきて1年が経ち、PS3は精彩を放っていたが、オンリーワンではなくなっていたのだ。更に、PS3はXbox360よりも100米ドルほど高かったが、それでも1台の売上による損失は240米ドルで、ソニーは重圧に耐えられなかった。