彼らの存在により、マカオの歴史市街地区は「生きている」のである。いくぶん雑多で騒がしかろうと、それは生命があるからであり、彼らこそが歴史や文化の真の継承者である。現実的な観点から見れば、彼らの多くはあまり文化的な生活を送っているとは言えず、新聞も読まず、インターネットもせず、映画やコンサートを鑑賞することもない。しかしこれによって、彼らがマカオ文化の象徴となることを妨げられるようなことは決してない。彼らは昔ながらの家に住み、昔ながらの職に就き、先人の信仰を受け継いで、古くからある風俗習慣に従いながら暮らしている。まるで歴史の特権を享受しているようだ。
このように歴史の中で生活している人々の文化生活とはいったいどのようなものなのかと訊いてみたことがある。その答えは、ソープオペラと麻雀卓であった。ソープオペラについては観察する機会がなかったが、麻雀卓については深く理解した。
古い廟の中には小さなテーブルを広げられ、4人の人が麻雀に興じている光景には本当に驚かされた。ある夜、ホテルのホールで結婚式が行われていた。祝いの音楽が外にまで聞こえてきていたが、突然、がやがやと騒がしい声に変った。中を覗いてみると、ホールは「マージャンの城」と化していたのであった。マカオのカジノ産業にはやはり文化の淵源と群衆の基礎があることを認識せずにはいられなかった。
小さな廟の中に広げられた麻雀卓
したがって、マカオの歴史を定義するのは容易いが、文化を定義するのは難しい。文化や伝統の豊かさと文化発展の乏しさは奇妙な矛盾であるように思うが、だからこそ、さまざまな地域の文化を受け入れながらも自身の文化を最も良く保存してきたのかもしれない。マカオの伝統概念は中国大陸のほとんどの地域では見られないものである。もしかすると、文化発展が緩慢であるがために、丁寧に保存されてきたのかもしれない。しかも、文化と文化の接触や衝突というのは常に双方に利益をもたらすものである。自分で自分を否定したり、破壊したり、見捨てたりすることこそが破滅的行為なのである。今日のマカオはそれを証明している。
しかしながら、グローバル化が急速に進む今日、現代文明の潮流は阻むことができないほど激しく、昔のままの姿を永遠に残して世間と隔絶した浄土になるのは非常に難しい。建築物や町並み、伝統や技術は保存したり複製したりできるが、人間の発展はとうとうと流れる水のごとく、阻止することはできない。ある意味では、人為的な保護は一種の破壊であり、事物の自然な発展に干渉していると言える。
マカオの文化遺産保護は成功しており、ユネスコから文化保護の模範とされている。マカオの成功は歴史市街地区をありのままに保存していることだけにあるのではなく、そこに暮らす人々の意識が現代の物質文明の衝撃を受けても急激に変化していないことにあるのではないかと思う。