片岡希=文・写真
1895年の横浜開港後、時代の流れに伴い中華街は様々な顔を見せてきた。そんな中華街が、今また変化のときを迎えている。開港から1970年代までの間に来日し、横浜に根を張ってきた老華僑。近年、彼らの店が閉まる一方で、中国からの労働者が多く見受けられるようになった。中華街にある公立学校には、子どもを連れた労働者が続々と訪れるようになる。中国人労働者急増の舞台となっている、横浜市立港中学校を取材した。
中華街に職を求める中国人労働者
数年前から、中華街を歩くと改築中の店を多く見受けるようになった。それは、毎年発行される中華街マップに照らし合わせてみてもよく分かる。馴染みの店は次々になくなり、地図は初めて聞く店舗名で埋め尽くされている。
中華街で立ち並ぶ店舗(写真提供・神奈川新聞社)
中華街の入口に位置する港中学校
代々中華街に住む老華僑は「こうした兆候は、バブル期からあった」と言う。景気高騰に乗じて急激な店舗拡大を図った店の多くは、景気が落ち込んだここ数年でつぎつぎに店をたたんだ。その数は、この2、3年で15軒にものぼる。閉鎖した店舗のなかには、長い歴史をもつ老舗老華僑店も含まれていた。歯抜け状態になった跡地に続々と楼閣を構えたのは、新華僑が経営する店舗である。80年代以降に来日した彼らの中には、留学後に事業を興した者も多い。中華街では、20~30代の若さで店舗経営する若者の姿も目立った。食べ放題や肉まんなど、破格の安さを前面に押し出した彼らの店は、多くの客が訪れた。
経営が軌道に乗ると、彼らは故郷から家族や親戚・知人を呼び寄せる。物価の高い日本では、労働力も馬鹿にならないからだ。中華街にはこうした職を求める出稼ぎ者が押し寄せた。
労働者が殺到する中学校
中国人労働者の急激な流入は、意外なところに影響を及ぼした。中華街の入口に位置する公立中学・横浜市立港中学校には、子どもを携えた労働者が続々来校するようになったのだ。同校の2010年3月現在の生徒内訳は、全校生徒333名中、外国籍及び両親のどちらかが外国籍の生徒が90名。その大多数は中国人で、この数は、近年増加の一途をたどっているという。
校内のプレートは3カ国語で表記してある
労働者子弟の増加には、同校唯一の特殊性が影響しているとも見られる。一つは、中国人生徒があまりに多く、中国語のみで一日生活できてしまうこと。もう一つは、中国語を流暢に操る土屋隆史先生(36歳、国際教室担当)を始め、外国人教育に熱心な教師が集まっていること。勝手分からぬ国で言葉も話せない労働者親子にとって、こうした“条件”は、何ものにも変えがたい。「港中に行けば何とかなる」と成田空港から直行した家族もいれば、「中国にいる時から港中の名前は知っていた」と語る親もいる。しかし、度重なる“来客”に、学校の負担はかさむばかりだ。
横たわる言葉の壁
これだけ日本語の分からない生徒がいるなかで、授業はどのように行われているのか。家庭科の授業を覗いてみた。海苔巻づくりを分かりやすく伝えるべく、先生が生徒を前に導く。「皆さん、集まって」の声にも、中国人生徒らは座ったままだ。日本語が聞き取れない生徒は、全クラスに存在する。三分の一が中国人の組もあるが、彼らを十分にケアするだけの人手も費用もない。様々な葛藤はありつつも、日本語のみで授業を進行せざるを得ないのが現状だ。一つの教室で学ぶ日中両国の子どもたちだが、積極的に交流することはない。その理由を問うと「言葉が分からないから話しても仕方ない」と双方が言葉を濁した。
港中の国際教室。担当教員はたった2人だけ
こうした外国人生徒の学習支援のため、横浜市では校内に国際教室を設けている。毎週2~4時間、日本語や不得手な教科を個別に学ぶことができる。しかし、配置される担当教員数は、外国人生徒五人以上で一人、二十人以上でもわずか二人と少ない。大量の外国人生徒を抱える港中において、これは現実的な数字ではない。更に、担当教員が子どもたちの母語を解するとは限らない、という問題もある。土屋先生のような存在は、横浜市では稀有なのだ。