周知の通り、近代中国は侵略者日本の蹂躙と殺戮をいやというほど受けた。一方で戦後日本は米国の冷戦枠組み内に組み込まれ、米国が東アジアにおける「抑止戦略」実施のための橋頭堡の役割を務めてきた。米国が発動した朝鮮戦争とベトナム戦争のおかげで、日本も経済利益にあずかり、急速に経済大国になっていった。1970年代初期、ベトナム戦争を経て米国の国力が弱まると、石油ショックと旧ソ連との覇権争いに直面した米国は中国に接近する外交政策を選択した。米国が自分の頭越しに外交を展開するのを見た日本は、驚きながらもいち早く中国と国交を樹立した。
1972年の中日国交回復後、両国国民間の交流と認識は絶えず深まり、1978年、両国は平和友好条約を締結した。中国国民は堂々たる大国の度量を示し、遺恨にこだわらず、日本を手本にし、目標にしてきた。1970年代末から80年代初めは、中日関係の黄金時代であった。1980年の世論調査によると、中国に対して親近感を持つ日本人の割合は78.6%に達していた。1982年には若干下がったものの、初めて米国を上回り、当時の中国は日本の一般市民にとって最も親近感のある国となった。当時の日本も中国国民の好奇と羨望の対象であった。
12月17日、日本政府は安全保障会議と閣議を行ない、今後5年間の新『防衛計画大綱』と新『中期防衛力整備計画』を決定した。写真は10月24日、埼玉県の朝霞駐屯地で行われた自衛隊観閲式で観閲を受ける96式装甲戦闘車
しかし残念なことに、1980年代半ばからの20年間、中日関係はずっと「歴史問題」に悩まされ、ひいては首脳外交を断絶するところまで来てしまった。しかし、両国の共同の努力の下で、中日関係は次第に理性的で成熟した方向へと向かい、「戦略的互恵」が両国関係の共通認識となった。ところが、中日関係と東アジア地域の協力に希望が見えてきたまさにその時、アジアの新興を望まない米国が、東アジア地域までやって来て「切り離し戦術」を行い、三隻の航空母艦から自国の強靭な力を見せびらかした。そして日本は米国を引き入れ、わざわざ敵を招き入れるようなことをしてしまった。日本の「右派政治家」と「右傾文化人」はとうに「平和憲法」に我慢ができなくなっており、「集団的自衛権」行使の回復、「武器輸出三原則」の改正を求めている。さらに注目されるのは、日本の大財閥も将来多国籍軍事工業企業として莫大な利益の分け前にあずかろうとしていることだ。したがって、彼らは日本政府が「武器輸出三原則」を改正し、軍国主義政治を実施するのを熱心に支持している。
新防衛大綱はすでに出来上がり、日本は軍事大国への歩みを加速している。日本の「自立」を主張する政治家や戦略家、日本軍人の「自尊心」回復を主張する軍事家、そして財閥の「利益」を主張する大企業家が三位一体となり、日本が再び武装の道を歩むのを後押しし、戦後60年間日本の安全を保障してきた「平和憲法」を台無しにした。日本が「正常な国家」へと向かうのは理解できるが、日本が敵を自ら引き入れ、外部の力を借りて近隣諸国の発展と復興を駄目にし、それを遅らせるのには我慢がならない。皮肉なことに、これらはすべて民主党「左翼」の肩書きを持つ菅直人首相と仙谷由人官房長官の手によって実現された。12月14日、菅首相は防衛省出身の前田哲氏を自分の秘書として起用することを決定した。防衛省出身の秘書官起用は戦後初めてである。こうして、日本の首相秘書官はもとの政務1人、事務5人にさらに軍務1人が加わり、秘書官は7人体制になった。同日、日本政府はさらに、アジア太平洋地域の安全保障協力のために2006年に始まった日米豪閣僚級安保戦略対話の枠組みに韓国を加えることを決定した。その意図は日米を中心とした「4カ国同盟」体制を作り、「海上封鎖訓練」を通じて中国と北朝鮮をけん制し、「海上ルート」の安全を確保し、いわゆる「海上安全保障」構想を実現することにある。