中国山東省出身の趙艶さんは、まだ今回の地震で多大な被災を受けた仙台にいる。彼女は、ここに残った数少ない中国人の一人である。「自分の人生で、まさかこんな経験をするなんて思いもしなかった。これから何があっても、自分の夢のために生きていきます。」11日、彼女は地震後一ヶ月の生活について記者に語ってくれた。
避難所にいる子供たち(4月11日)
被災地に留まったのはチケットが買えなかったから
一ヶ月前の地震は、思い出すだけでも怖いという。「電気、水道、ガスがすぐに全て止まった。部屋は3分以上ずっと揺れていて、怖かった。走るどころか立っていることさえ、ままならなかった。」
彼女も帰国を考えたが、一万元以上となったチケットが、彼女を日本に留まらせた。「値段は以前の5倍、高すぎて買えなかった。」彼女は今もため息をつく。
地震後、彼女は不安な気持ちを抱えたまま、ルームメートとともに避難所となった近くの小学校へ行き、「被災者」となった。仙台市の中心部には、これといった被害はなかったが、彼女たちは避難所生活を余儀なくされた。それは、「家では食事を作ることができない」からだ。
肉も野菜もある「避難所食」
二週間の避難所生活は、彼女にとってとても印象深いものとなった。
「避難所には一人当たり与えられた布団一式ほどの狭い空間しかなく、数百人という大人数が寄せ集まっているが、日本人はとても規律を守り、騒いだり大声で話したりする人はなく、みんな、本を読んだり、ラジオを聴いたり、眠ったりしていた。」
彼女によれば、この避難所はとても恵まれており、ボランティアスタッフが、被災者に毛布を配り、毎日三食を提供してくれる。通常はご飯と肉数切れ、おかず2品程度で、その後、スープと果物もあり、夜になるとおやつも出るという。「みんなおなかいっぱい食べられる。」
震災四日目、彼女が住んでいた地域も電力供給が回復し、時には、昼間のうちに部屋に戻ってインターネットをしたり、テレビを見たり、付近を散歩したりできるようになった。しかし、その頃、一部のコンビニは品薄状態となり、ガソリンスタンドには多くの車が行列を作っていたという。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年4月18日