暗闇をさ迷う東京電力清水正孝社長

暗闇をさ迷う東京電力清水正孝社長。 米紙『ワシントン・ポスト』は、清水正孝社長を「雲隠れした人物」と評し、大企業の、それも大事故を起こした企業の社長としての責務を果たしていないと批判した。清水社長は稀に記者の前に姿を現しても、言葉数は少なく、両目を固く閉じている。技術面のことは、説明できない…

タグ: 東京 電力 社長 核 原発 清水正孝

発信時間: 2011-05-16 10:51:25 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

文=コラムニスト・陳言

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米紙『ワシントン・ポスト』は、清水正孝社長を「雲隠れした人物」と評し、大企業の、それも大事故を起こした企業の社長としての責務を果たしていないと批判した。清水社長は稀に記者の前に姿を現しても、言葉数は少なく、両目を固く閉じている。技術面のことは、説明できない。経済面のことは、既に、彼の予想の範囲を超え為す術を持たない。

清水社長の雲隠れが様々な憶測を呼び、日本のインターネット上には、「清水社長は謝罪のために自殺した」「清水社長は逃亡した」などの偽情報が度々出現した。

彼は生きている、彼は逃亡などしていない。時折、東電の事故対策本部の会議室に、彼の姿を見ることができる。ここは、1日24時間体制で稼動する司令部で、清水社長はずっとこの場所にいる。

検針員としての4年間

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複数の東京電力社員が、清水社長は素晴らしい人物だと話す。何故なら、東京電力のような大企業において、トップの地位に就く資格があるのは、常に、東京大学の法学部出身者に限られる。清水社長以前には、東電社長の地位は47年来、常に、東京大学出身者、特に東大の法学部出身者が長期にわたり独占してきた。

1968年、慶應大学経済学部出身の清水社長が東電に入社した際、彼の仕事は検針員であった。検針員は大変な仕事だ。彼は大学卒業後、この仕事を4年間続けた。

検針員の次には、原子力発電所に赴任し、一般市民との交流業務を担当した。地元側に原発の運転継続を同意してもらうのは、決して容易なことではなく、彼は毎日のように地元を廻り、原発周辺の住民達と親交を深めた。

27年間の勤務の後、1995年には所長に就任し、資材調達を担当した。最初の仕事は、東電社員5万人の作業服を中国での委託生産に変更することで、それにより、あっという間に購入費3億円を節約した。このことが、後に彼が企画及び広告業務を担当する副社長に就任する礎となった。

残念ながら、清水社長が地元との交流や企業広報の仕事を通して培った経験は、この福島第一原発の事故では、殆ど役に立たなかった。今回の事故は、40年近くにわたり安全運転を行ってきた東電に突然な打撃を与え、日本の原発安全神話に決定的な終止符を打った。

信条は「看脚下」

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