資料写真:東条英機
弁護側が提出した物証は、当時の「国際安全地区委員会」から日本軍に宛てた、難民地区に対し砲撃しなかったことに対する感謝状、そして難民地区に食料を運んでくれた日本兵に対する個人的な贈り物だった。だが、これらの物証は、検察側の大量の証人と証言の前では、あまりにも無力なものだった。
弁護側が積極的に弁護を行わなかったのは、弁護士の中に歴史の真相をよく知っていた者がいたからである。島田繁太郎の弁護士を担当した瀧川政次郎氏は、当時北京で南京大虐殺について耳にし、1938年南京を訪れた際、人力車に乗って市内を回った。発生からすでに半年が経っていたものの、南京市内にはまだ民家の焼け跡が散在し、車夫によれば、それらはみな日本軍に焼かれたもので、更には、南京市の女性たちもそのほとんどが性的暴行を受けたということだった。
そのため弁護士達は、日本軍の暴行に対する弁護を諦め、代わりに当時の方面軍最高指揮官だった松井石根大将が部下の行為に対し責任を負うべきかどうか、そしてそれはどの程度の責任かという点に焦点を絞る方法をとった。
結果、松井石根は東京軍事法廷で死刑の判決を受けた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年3月4日