薩蘇著「尊厳不是無代价的(尊厳を守るには代償が必要)」より
私が抗日戦争の文献や、南京大虐殺と直接的な関係があるものに注目するようになったのには訳がある。それは数年前の事、日本の若者とBBSで意見を交わした。相手の主張は「南京大虐殺は完全なでっち上げである」というものだった。私は怒りを抑えきれずに聞いた。「あなたがなんと言おうと、南京城の下に埋まっている犠牲者の骨までは否定することはできないだろう。」
その日本の若者はこのように答えた。「あなたたち中国人はずっと内戦をしていたでしょう。その骨はあなたたちが自分で埋めたものではないのか?」
その無知とも妄想とも言えるような答えに対して、私は怒りを通り越して呆れ果ててしまった。そして、私は日本で書かれた文献や資料をもとに事実を明らかにし納得のいく答えを示そうと決心したのだった。
私の本棚には戦争に関する資料が既に入りきらずに山積みになっている。しかし、南京大虐殺に関するものを探そうと思うと、少ししか見つからなかった。日本ではこの悲惨な事件に関する書籍は、はいて捨てるほど出版されている。私はただ、それに立ち向かう勇気がなかったのだ。私たちの祖先が屈辱と危害を受けたむごい歴史を直視することができなかった。旧日本軍がかつて、その民族性らしく細部まで克明に記した描写は、私の目の前にその大虐殺の惨劇を手に取るように映し出すのである。
しかし、結局のところ、血で書いた歴史の真実を筆で書き換えることはできない。このようなこと細かい確実な資料があるからこそ、日本政府は公に南京大虐殺を否定することもできなければ、否定する度胸もないのだ。日本の歴史教科書にも必ず南京大虐殺が取り上げられている。
しかし、日本の一般的な世論を見てみると、その考え方には大きな違いがある。一部の歴史事実として受け入れている人々以外に、大きく分けて4種類の割と典型的な「修正意見」がある。
意見その1、南京大虐殺「まぼろし説」
この「まぼろし説」は日本の極端な右翼派の若者たちが言っている。例のネットで私と討論した青年はたぶんこの考え方だろう。この説の典型的な主張は1994年9月4日、大橋政太師氏が「産経新聞」に載せた文章で公然と明示された。文章では「南京大虐殺は『まぼろし』である。なぜなら、誰一人として自らの目で大虐殺の光景を目撃していない。数千人もの虐殺の目撃者は一人もいないのだ」と述べられていた。また、日本は専門の検証チームを立ち上げ、中国メディアが南京大虐殺の報道に使っている写真を検証し始めた。その検証の結果から、事件の期間中に撮られたものではないと証言している。このような考え方をする人々は大体が歴史の常識さえも分っていないような若者である。なかには何か別の企みがある政治家もいるようだ。