一方で、これまで何度も僕がこちらのブログでも批判してきましたが、「1年間、まったく動かなかったもの」、それは日本の政治です。日本国民という個人が、そして、日本の経済を支える企業が必死に努力をしている中で、政治は動きが極めて遅かったと言わざるを得ません。
僕は社会的組織を研究する中で、社会組織セクターを3つにわけることがあります、政府セクター、民間営利セクター、ボランタリーセクターです(伝統的な考えでは、政府セクターと民間セクターの2部門だけです。)。多少強引にわかりやすく説明すると、これら3つの区分はそれぞれ「政治家・公務員」・「企業家・会社員」・「芸術家・宗教家・自由な個人」が職業的に代表していると捉えてもよいでしょう。それぞれのプレーヤーは社会という互恵関係を通じて互いに影響し合います。
今回の震災をうけて、企業・会社員の皆さんは、自分の企業が生き残るために必死に動きましたし、また表面上の概念だけではないCSR(企業の社会的責任)というものの価値を再発見する良い機会になったかと思います。
芸術家・宗教家の皆さんも、その芸術や宗教を通じて如何に震災という事象を咀嚼し、その要因または表象文化によって説明力を高めることに必死になられたかと思います(例:震災と被災者の心理状況をどの宗教的意義に結びつけるかという宗教、被災を描写した絵画・映画、被災者への心に最も響く音楽旋律の編み出し、等)。
しかし、政治は「必死さがなかった」と思います。ここでいう政治とは、地方自治体の公務員でもなく、また地方議会議員でもありません(被災地の公務員のみなさんが昼夜惜しまず働かれていたことは多く報じられました。)、ここでは国会議員、国政政党幹部、一部の霞ヶ関官僚といえるでしょう。自分たちだけの保身に走り、長期的な復興プラン・ビジョンも提示できず、振り返ってみれば一年間ずっと政局にあけくれていました(本気で政治の役割として震災復興に汗をかいている政治活動家の方も多くいらっしゃるのを僕は知っていますが、そうではなくて、『政治システム不全』という抽象的で厄介な事象を錦の御旗に、自らの震災復興への職業的義務の怠慢をかわしている政治活動家を指します。)。
中川幸司さんのブログ「情熱的な羅針盤」