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阿波丸の引揚げ作業

1945年4月1日、日本への航海途中にあった日本の大型貨客船・阿波丸(11,249トン)が、中国の台湾海峡牛山島沖でアメリカの潜水艦「クイーンフィッシュ」号に攻撃された。最初の魚雷を受けてからわずか3分で阿波丸は撃沈され、阿波丸に乗船していた2000人以上の乗員乗客と貨物は船とともに海底に消えた。この惨事で生き残ったのは、下田勘太郎という人物ただ一人であった。

その32年後の1977年4月5日、中国政府は阿波丸の引揚げに同意し、中国史上最大規模の沈没船引揚げプロジェクトが開始されることになった。5月1日早朝、上海のサルベージ船、滬救撈3号を先頭とするサルベージ船団が牛山島海域に入り、阿波丸の探索を始めた。

最初に海に入ったのは、潜水大隊の馬玉林隊長であった。40m、50m、58m、水圧に体を慣らしながら半時間をかけて海底に下りた馬隊長は、最初に巨大なマストを発見する。馬隊長の報告から、沈没船は1万トン級の船舶と判断された。この海域で沈没した1万トン級の船舶といえば、阿波丸しかない。その後、第二陣の潜水隊員が犠牲者の遺体を発見する。最初の考察で、この遺体は第二次世界大戦中の日本軍の高級将校のものと判断された。続いて積荷と見られるスズのインゴットが発見される。これは、アメリカと日本から提供された阿波丸の積載貨物に関する資料と符合していた。更に、潜水隊員が持ち帰った2枚の名札も、犠牲者リストにある人物のものと確認された。1977年5月1日の早朝から夜半にかけての探索で、サルベージ隊は阿波丸の位置を特定した。

3年後の1980年7月9日、サルベージ船団の滬救撈3号によって、沈没船が阿波丸であることを直接証明するもの貨客船に備え付けられていたベルが発見された。そのベルには「阿波丸」の三文字が刻まれており、建造年代と所属する船会社の社名も鮮明に読み取ることができた。

アメリカと日本から提供された沈没船の資料に基づき、潜水隊員は細心に捜索を進めたが、阿波丸伝説に語られる金40トンとプラチナ12トン、それと大量の工業用ダイヤモンドは最後まで発見されなかった。

1979年、超重量級のクレーン船、大力号が現場に入ったことで、サルベージ作業はピッチを大幅に上げ、1980年、35年間海底に沈んでいた阿波丸の船首がついに海上に現れた。阿波丸の船名はすでに海水に浸食されていたが、英語名の省略表記「AAAR」は完全な状態を保っていた。この年、中国政府は世界に向け、正式に阿波丸のサルベージ作業の終了を宣言する。

阿波丸の引揚げの過程で、中国政府は日本側と協力し、引揚げられた阿波丸の犠牲者の遺骨や遺品の収集と鑑定を行った。1980年、中国政府は日本に阿波丸の犠牲者の遺骨の引き渡しを決定し、中国政府を代表して、上海紅十字会が368体分の遺骨と218箱分の遺品を3回に分けて日本政府に引き渡した。

35年の歳月を経て、阿波丸の乗客はその長い航海を終えることができたのである。

「阿波丸」のベル
引揚げられた「阿波丸」の船首部分
潜水隊員は65―70mの海底での探索を続けた
「阿波丸」の犠牲者の遺骨を日本側に引き渡した
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