文=コラムニスト・陳言
大学卒業後の数年を東京で働いた後、本田勝之助さんは故郷福島に戻った。
以来「人材の育成・地域再生・農業の活性化」を理念に精力的な活動を続けて10年あまり、本田さんも30代後半となった。
地震の被害が大きかった福島、しかしそれにも増して影響を受けているのは原発事故だ。地震後本田さんは、他の企業・NPOなどと共に「福島」を改めて知ってもらう方法を模索しはじめた。
被災地復旧のスピードには日本各地からのサポートが大きく関わっている。1995年の阪神大震災の時よりも更に大規模な救援活動が全国で展開されており、政府・自治体も緊急体制のもと対応している。そして阪神大震災と比べて規模も被害も甚大だった一方で、多くの企業が被災後さほど間をおかずに生産ラインを復旧させている。
しかし一方で原発付近の住民は、地震による家屋の損傷がなかったにもかかわらず県内の別の場所、あるいは県外での避難生活を強いられている。
その多くの人がほんのわずかな身の回り品と共に、公共施設の段ボールに囲まれた空間で暮らしている。新しい救援体制をいかに築くか――各方面が思案している問題だ。
「多くの義捐金が被災地に送られました。今も救援物資を募る活動が多くの人によって続けられています。彼らの多くは“自分たちができること”、例えば被災地の人に卵や野菜を送ることなどから始めました。そこで私たちはハガキを印刷して高速道路のサービスエリアで販売することにしました。ハガキを買うことで、被災地の人々を思いやる気持ちを具体的な形で送ることができます」
本田さんはそのハガキを手にして言った。