奥井禮喜氏:ヒューマニズムの精神

奥井禮喜氏:ヒューマニズムの精神。 思えば、わが青春時代には、《精神》は敬遠されていた。敗戦後20年、かつての奇怪な日本精神なるものへの反感が、戦前を知らない世代のオツムにも強く刻印され、精神という言葉自体が思考対象から外れていたみたい…

タグ: 奥井禮喜 ヒューマニズム 精神

発信時間: 2012-05-22 13:49:18 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

近代のヒューマニズム(狭い意味の人道主義ではない)である人間的実存を、生きる価値の基礎に据える思想を残した。ここに自由を求める自我の考え方が実践的に残されたわけだ。

そこらへんに転がる精神主義ではない。精神を磨くことに生涯を貫いた人が紡ぐ言葉は美しい。ペトラルカの追求した課題は「生きる哲学」、人格の陶冶にあった。これこそが自由の本旨である。

P・ヴァレリー(1871〜1945)の「精神の危機」を再読。第一次大戦後の西欧について、精神の危機という視点から考察したものを集めており、人間観、社会観、世界観を考えるうえでいろんな示唆に富む。

思えば、わが青春時代には、《精神》は敬遠されていた。敗戦後20年、かつての奇怪な日本精神なるものへの反感が、戦前を知らない世代のオツムにも強く刻印され、精神という言葉自体が思考対象から外れていたみたい。

しかし、すべての個人の思索・行動、社会状況は、煎じ詰めれば精神の所産に違いない。それでは「精神(について考えること)を敬遠する精神」であって、よろしくない。

考えないことは問題意識がないのであって、問題意識がなければ問題がないことになってしまう。しかも、現実は問題だらけである。

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