文=奥井禮喜
わが国の政治がもっとも混乱するのは、大概は経済活動不如意(と人々が考える)の場合である。もちろん経済は生活基盤だから当然と言えば当然だが、少し考えてみたいのである。
明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。人々は天から幸いが降ってきたかのように(降ってきたのは事実だが)騒動した。
長谷川時雨女史(1879〜1941)の父・深造は明治12年(1879)最初の官許代言人(弁護士)12人の1人であった。屈指の知識人というわけ。憲法とは何か、庶民は知ってはいない。(長谷川時雨「旧聞日本橋」)
洋服が珍しい。ハイカラな礼服を着用した深造が近所の大店で一場の憲法講釈をやる。朝から祝い酒で頬を赤黒くした深造が喋ると、サクラが拍手したり、ノーノ—(否定)、ヒヤヒヤ(謹聴)の合いの手を入れるのだが、中身がわからず景気を付けるのだから混然一体、お祭り騒動だった。
とにかく《おめでたい》という次第で、講釈が果てると弁士を胴上げして自宅まで送った。その後は長唄三味線賑々しく、唄い、飲み、夜通し騒動で、朝、雪のぬかるみには急性アルコール中毒の死人がごろごろ。
時代は下がって敗戦後昭和21年(1946)11月3日が日本国憲法発布であった。国家主義の大日本帝国憲法とは正反対の基本的人権に基づき、国民主権・徹底した平和主義を掲げた。ただし庶民は《憲法よりメシ》の感覚、なるほど食うや食わずの事情だったから仕方がないが、やはり寂しい。
この憲法は「主権が国民に存することを宣言し」とあるのだから、民主主義の出発を挙って衷心より祝ってほしかった。さて。