文=奥井禮喜
「剣をとるものは剣によって滅ぶ」に倣えば、「経済をとるものは経済によって滅ぶ」というわけで、武力にせよ、金力にせよ、それだけでは品位が感じられないのである。国家間のお付き合いには品位が大事だ。
敗戦の余燼果てぬ1946年3月、米国教育使節団が来日した。教育エキスパートの視線によって、わが国の教育の来し方を分析し、民主主義国にふさわしい教育の在り方を提言しようという企画であった。
使節団を迎えて文部大臣・安倍能成が挨拶した。その要旨、
「米国は勝者であり日本は敗者である。これは冷厳な現実であるが、我々は戦敗国として卑屈にならざるを欲するし、貴国が戦勝国として無用の驕傲ならざるを信ずる。----従来のわが国の教育は人格確立・個性尊重の欠乏という弱点があった。----諸君の知恵と経験に信頼し、----永遠の使命を果たすとともに現実の要求を充たすべき教育の実質的改善の端緒を拓くことに貢献したい。」
とかく占領軍の顔色をうかがい、ともすればそれに阿る気風が圧していた当時にあって、まことに堂々たる挨拶であり、米国委員のおおいなる共感を得たと伝えられている。これが品位であると思う。
戦争を決定したのは国家権力を直接行使できる立場にあった人々によるのであり、圧倒的大衆は軍国主義国家の強権政治に従わざるを得なかったのではあるが、戦争に参加した以上倫理的にはすべてが責任者である。
だから、戦後たとえば郭沫若氏が日本人に対して「大衆は無辜の民である」と寛容にして寛大なメッセージを贈られたのは、戦争被害国であり勝者である中国と国民の偉大な品位を物語るのであって、私は感謝に耐えない。
極東軍事裁判では戦犯が裁かれた。国内においては日本人自身による戦争総括や戦犯を裁くことはなかった。倫理的には全員が責任者なのだから当然であるが、出直し再出発の足場を固めるという意義からすれば無責任体制を、その根源にある思想を根絶しなかったという欠陥を残した。