奥井禮喜氏:日本的コミュニティ論

奥井禮喜氏:日本的コミュニティ論。 わが国には、西洋のように「都市が人を作る」という思想がない。体験的に「会社が人を作る」という言葉は当てはまりそうだ。社内民主主義が発展しつつあるのだろうか。もしそうでなければ、会社人間の多いわが社会のことだから、全体の民主主義も停滞していると言わざるをえないではないか…

タグ: コミュニティ 日本 市街地 少子高齢化 

発信時間: 2012-06-13 09:40:52 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

文=奥井禮喜

敗戦からまだ日も浅い1947年4月20日、長野県飯田市に大火災が発生した。市街地の3/4に当たる60万�が消失した。再建に向けて市中心部に東西南北25m幅、中央に緑地帯のある防火道路が建設された。

1952年、飯田東中学校の松島八郎校長が札幌市へ出張した際、街路の見事さに強く印象づけられ、全校生徒に感激を語った。感銘した生徒たちは緑地帯に「リンゴ並木」作りを決議する。これだけでも感激に価する話である。

校長が先生方にはかると全員賛成。「自分たちが世話する」として市に提案した。育ちにくい、結実すれば盗まれるなど反対論が邪魔をする。生徒たちは再度植樹計画を決議して申し入れた。話を聞いた新しい助役は、立ち上がって校長と生徒の手を握りしめた。苗木は市が提供することになった。

1953年9月の日曜日、1,500人全校生参加で植樹作業が開始した。直径3m・深さ2mの穴を掘る。人力作業である。同11月8日、400mにわたって40本の苗木が植えられた。生徒は緑化部を作り、剪定・土づくり・散布・施肥・消毒・袋かけ・摘花・収穫の作業をおこなう。

1955年最初のリンゴが結実した。花火大会の夜、すっかり盗まれて残ったのは4個だった。全国から激励の手紙が殺到した。生徒たちの意気は挫けなかった。現在も脈々と後輩たちに受け継がれている。

1968年にはリンゴ並木を減らして駐車場を作れという声が上がった。駐車場反対運動が巻き起こり立ち消えになった。1974年、札幌市美園の高齢者が飯田市にならってリンゴ並木を作った。

もう一つ、十数年前、岐阜県清見村を訪れた。飛騨牛の産地として有名になっているが当時は全国へ売り出し開始という時期である。村営レストランが作られアルプス少女風ユニフォームの女性がウェイトレスである。

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