1977年8月、東南アジア5カ国を歴訪した日本の福田赳夫首相はフィリピンの首都マニラで東南アジア政策の3つの基本原則「福田ドクトリン」を発表した。福田ドクトリンは1970年代以降の日本の東南アジア政策の柱となった。福田ドクトリンは「日本は軍事大国とならず、世界の平和と繁栄に貢献する」「日本は政治、経済、社会、文化など各分野でアジア諸国との交流を強化し、真の友人となり、心と心の触れあう信頼関係を構築する」「日本は対等な協力者の立場で東南アジア地域全体の平和と繁栄の促進に努める」との3点からなる。
日本の多くの学者は、福田氏が日本は決して再び軍事大国にならないと約束し、世界の平和への貢献に専念する意向を表明したことで、日本と東南アジアとの協力が真に促進されたと指摘。今日の多くの日本企業の東南アジアでの発展も、依然福田ドクトリンの恩恵を被っているとの認識を示した。
シンガポール国立大学東アジア研究の陳剛研究員は「福田ドクトリンは日本が再び軍事大国の道を歩むことへの東南アジア諸国の懸念を打ち消し、日本企業の東南アジア進出を助けた。福田氏は東南アジア諸国との関係を修復するため、軍事大国にはならない方針を表明した。だが安倍氏の打ち出した価値観外交には中国と領土紛争を抱える国を抱き込み、中国を牽制し均衡を図る意図がある」と指摘した。
日本のある学者は、福田ドクトリンの登場は、1974年に田中角栄首相が東南アジア5カ国を歴訪した際に大規模な反日デモに遭ったことと直接関係があると指摘した。福田氏のマニラ演説の起草に参加した枝村純郎元駐インドネシア大使は「田中角栄が東南アジア訪問時に遭った反日デモによって日本人は問題の深刻性を認識した。福田ドクトリンはトヨタ車が焼かれる洗礼の中で生まれたものだ」と指摘した。
日本が東南アジアを侵略した歴史について日本国内には2つの全く異なる見方がある。1つは東南アジア諸国を助けて欧米植民地主義者を追い払ったという「解放史観」。もう1つは東南アジア侵略は罪だとする「贖罪史観」だ。東京大学の保城広至准教授によると、田中角栄氏の1974年の東南アジア歴訪までは「解放史観」が主流だった。例えば吉田茂元首相はフィリピンと戦後賠償問題を話し合った際、賠償金は贖罪ではなく日本経済発展のための投資との考えを堅持した。「田中角栄が東南アジアで遭遇した出来事によって、日本は東南アジア諸国に強烈な反日感情があることを目の当たりにした」。その後の日本が東南アジア政策を策定する際に、贖罪意識は大きな影響を与えた。
趙氏によると、現在日本は1970年代の福田ドクトリンに背いている。福田ドクトリンには排他性がないが、安倍氏の打ち出した「東南アジア外交5原則」は攻撃性を持つ。「もし日本が福田ドクトリンに立ち戻ることができれば、東南アジアの平和と安定、および東南アジアでの日本の発展の双方にメリットがある」。趙氏は「安倍氏の推し進める価値観外交は実行レベルで大きな困難を抱える。東南アジア各国には各々自らの利益があり、価値観外交によって抱き込むことはできない」と指摘した。
「人民網日本語版」2013年5月4日