村上は常に世界の公民として、彼の世界観を示す小説を書いている印象がある。透明な文体、すっきりした日本語、不可思議な構想で、その言語世界を形成している。ゆえに彼の小説の背景と登場人物は、現代化後の国のどこに持ってきても通用する。多崎つくるという20代の大学生は、毎日死を思い浮かべる。これそのものには、どれほどの現実性があるのだろうか?文学は生活に根ざすべきと強調する必要はないが、文学は生活を尊重しなければならない。これは過分な要求ではあるまい。日本の若者は毎日、自殺を考えているのだろうか?
現代化後の日本では社会問題が山積している。日本人の精神は、昭和から平成にかけて大きく変化したが、村上はそれを掘り下げて描こうとしていない。日本の現実に対する関心がなく、現実の日本に対する熱意が欠けている。まるで日本で起きていることのすべてが、彼とは関係ないかのようだ。彼は独自のやり方で独自の多崎つくる、青豆、田中カフカ、巡礼の年を描写した。
村上春樹の受賞の可能性という避けては通れない問題があるが、筆者は最終的に受賞すると判断している。
しかしここで注意しておきたいのは、これは小説そのものが理由ではないことだ。毎年予想オッズに名を連ね、世間を騒がせ、もう一歩で落選を続けているのだから、ノーベル委員会もさすがにまずいと感じるだろう。東アジアの数多くのファンのノーベル賞への関心を失わせないため、英語圏の一部のファンにサプライズを与えるため、村上に一度は受賞させるべきなのだろう。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2014年10月11日