東京は人口問題にどう対処したか
東京は人口問題を都市発展戦略の中で統一的な計画・判断を行うものとして位置づけた。戦後の復興、都市の急速な発展に伴って、東京には各種の「大都市病」が時運に応じて現れた。なかでも人口膨張が引き起こした数々の問題は、「大都市病」を集中的に体現するものである。都市の規模を抑制するか、あるいは特大都市として発展させるか。この難しい選択が東京の都市管理者の頭を悩ませることになった。そして高度経済成長の中、特大都市として発展させるという意見が一度はイニシアチブをとった。しかし1964年のオリンピック開催の準備をする過程で、東京の発展構想は「抑制か発展か、どちらかひとつ」という狭い考えから飛び出して、「受動的発展から能動的発展へ、都市の規模だけに注目するのではなく、都市の配置に注目する」という斬新な発展の道を切り開いた。産業構造の最適化、副都心や新都心の開発、大都市圏の建設などの一連の措置により、人口の数量を都市の発展促進、都市の生活性機能の向上と結びつけ、人口の流動と合理的な分布を効果的に促進し、東京都の人口規模と構造を抑制及び最適化したのである。
経験1:産業構造を調整し、都市人口の規模、素質、構成を最適化
産業構造は、人口の規模、素質、空間分布に影響する重要な要素である。東京の産業構造は、都市化初期の労働集約型から資本・知識集約型へと徐々に移行するプロセスを経てきた。
55~70年、鉄鋼、造船、機械、化学工業、電子などの産業が急速に発展したことにより、東京には製造業企業を主とする第2次産業の就業人口が集中した。人口の急激な増加によって、東京の住宅、交通、環境、エネルギーなどは大きな困難に直面した。このため、東京都は、東京圏計画を策定し、「工業抑制法」などを施行して、大量の労働集約型企業や東京にもともとあった一部の重化学工業を東京近郊や中小都市あるいは海外へ移し、研究開発型工業、都市型工業を主とする現代都市型工業を集中させ始めた。こうして、資本・技術集約型産業が労働集約型産業に取って代わったことにより、東京の域内総生産と1人当たりGDPは増加した上、都市の人口総量も大幅に減少した。