震災後の日本取材紀行:再び輝きを取り戻した個人の社会支援

震災後の日本取材紀行:再び輝きを取り戻した個人の社会支援。 日本の社会もこれと同じである。表面上は震災が過ぎ去り、すべてが平静に戻っている。しかし、水面下では、さまざまなところで小さな変化が進んでいるのである。今回の震災もまた、経済停滞と民衆不安の中でさまよい続けた日本が生まれ変わるきっかけとなるのだろうか…

タグ: 変化 制度 茨城県 メディア 企業 社会支援

発信時間: 2011-06-07 10:19:03 | チャイナネット | 編集者にメールを送る

再び輝きを取り戻した社会支援の光

更に注目すべきは、震災後、個人の社会支援の光が再び輝きを取り戻したことである。これは震災前には困惑し、孤独で、閉鎖的だった日本人の状態とは全く異なっている。

67歳の田中正昭氏は定年前、ある電力会社の理事をしていた。3月11日の地震発生後、すぐに東京電力福島原発で重大事故が起こる可能性があるという情報が入ってきた。彼は毎日、家で一日中テレビや数社分の新聞を、電力関連の記事は特に一字一句丁寧に、細かい点も逃さないよう目を通していたが、読めば読むほど気持ちが沈んでいった。

いろいろ考え、ネットでさまざまな情報を調べた後、彼は被災地でボランティア活動をすることに決めた。

彼は最も被害の大きかった宮城県を選んだ。3月上旬、新幹線はまだ止まったままだったが、宮城県仙台市への道路はすでに回復していたため、67歳の田中氏は大型バスに乗って仙台へ向かった。彼は「この歳では体力に限界があるため、自分でボランティア活動は3日間だけと決めていた。」という。

3日分の乾パン、ジュースと水、寝袋を準備し、彼は出発した。更に、大きなビニール袋を準備したのは、空のペットボトルなどのゴミを東京に持ち帰り、現地に一切の迷惑をかけないようにするためだった。

地震発生後、幾日もたっていない仙台では、本格的な救助活動はまだ行われていなかった。彼の仕事は僻地の村落へ行き、被害にあった高齢者と世間話をすることだった。

「震災後、多くの私と同じような年齢の人々が非常に孤独で憂鬱な状態にあった。私は彼らと世間話をしてそれを和らげるとともに、できる限りの範囲で彼らの庭を掃除したりしていた。」

「後になって、被災地にボランティアに行く多くの若者を見た。それは新聞やテレビの報道とは全く異なる日本で、明るい日本を感じさせるものだった。」

ボランティア活動に参加したことで、田中氏自身もその気持ちの重さから開放された。仙台に近い宮城県石巻市でも、地震発生後2カ月足らずのうちに6.8万人のボランティアを受け入れ、救助活動の大きな力となっている。

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年6月7日

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