文=コラムニスト・陳言
資料写真:坂東玉三郎氏
2011年11月10日、玉三郎さんは京都国際会館の壇上にいた。舞台ではなく稲盛財団の「京都賞」授賞式だ。この京都賞は毎年の授賞者が3人のみという国際的な賞で、2011年の思想・芸術部門は1950年生まれの歌舞伎女形、坂東玉三郎さんに贈られた。
女形について語る時、中国では京劇役者の梅蘭芳がしばしば例に挙げられるだろう。
「子どもの頃は自分が歌舞伎の世界に入るとは思いもしませんでした」
受賞の挨拶で玉三郎さんは過去を振り返り語った。あの頃はただ体を動かしたい、舞台に上がりたい、という気持ちだけがあり、玉三郎さんのご両親も息子の自由にさせてくれていた。言いたいことを言い、踊りたいように踊り、いつしか舞台は自分を表現する大切な場所になっていたという。
天性の素質に恵まれた玉三郎さんは14歳で“坂東玉三郎”を襲名した。
「養父である第14代守田勘弥はその時私に『これでお前もプロの役者だ。この先の道は更に厳しいだろう』と言いました。私もそのプロという感覚を多少なりとも理解したことを覚えています」
玉三郎さんは語った。
そして5代目坂東玉三郎としての人生が始まった。実名は過去のものとなり、4代目坂東玉三郎の芸を継承するという使命を負った。養父は玉三郎さんが24歳の時に亡くなっているが、
「養父が繰り返した言葉が今も鮮明に心に残っています」
玉三郎さんは続けた。
「これでいい、と思ったらそこでおしまいだ」
自らの50年あまりの舞台経験と養父や師匠の教えから、玉三郎さんが考える役者として一番大切な姿勢‘舞台に立って観客に良く見せようとするな。その役柄になりきることだけを考えよ’を真摯に実践してきたという。