1960年代、大松博文監督の「精神力バレー」は、国際バレーボール競技界において特異な存在であった。大松監督は、その「鬼」のようなトレーニングで、日本女子バレーチームに奇跡の175連勝を成し遂げさせ、日本女子バレーチームは「東洋の魔女」と恐れられた。
1964年11月、初めて中国を訪れた大松氏は、中国の周恩来総理に二度も会見されている。1965年4月21日、大松氏は周恩来総理の要請を受け、一カ月の間上海で中国女子バレーチームの指導に当たることになった。
大松監督のトレーニングは厳しくて過酷なことで知られ、「鬼の大松」と呼ばれていた。特に大松監督が編み出した回転レシーブの練習では、中国の女子選手は全身青アザだらけにされている。トレーニングの途中で、床に倒れこんだまま動けなくなってしまう選手もいたほどである。それでも、大松監督は大声で怒鳴り、強烈なボールを叩きつけた。「練習をしているうちに、目まいがして、目がかすみ、体育館がぐるぐる回っているように見えました。なのに、無意識のうちに体が走り出し、大松監督が投げた球をレシーブしているのです」と、当時のメンバーがその過酷なトレーニングを語ってくれた。耐えられなくなったある選手は、目を見開いて監督に食って掛かった。「鬼の大松、あんたにかみついてやる!」。大松監督はその選手の言葉を通訳するように言ったが、通訳は機転を利かせ、「彼女は、『大松さん、もっとやりなさいよ。私はあんたなんか怖くない』と、言っています」と、伝えた。しかし、彼女の険しい目を見れば、大松監督にもその選手の真意は分かった。厳し過ぎるトレーニングに選手が反抗することなど、日本でも珍しくなかったからだ。
「ライオンはわが子を谷底に突き落とし、上がって来いと声をかけると聞く。スズメは小スズメが成鳥に近づいてきたら、巣立ちさせるために何日も餌をやらないとも言う。私は選手たちをこのような親心で包んでいるのです」と、大松監督は語っている。
一カ月が過ぎ、帰国前夜になっても大松監督は通常通りにトレーニングを行った。送別会の席上で監督は、「中国には意志が強く、飲み込みの早い女子選手がこんなに大勢いて、良い観衆とバレーボールに関心を持ってくれる国の総理がいる。世界チャンピオンにならないほうがおかしい」と挨拶している。そして、別れる際に選手の一人一人にタオルを贈り、「君たちにタオルを贈る。今後は、今まで以上に汗をかくように」と、意味深長な言葉を残した。
大松博文氏は1978年に亡くなったため、中国女子バレーボールチームのその後の「五連覇」の偉業を目にしていない。大松監督が中国の女子バレーボールチームを指導したのは一カ月という短い期間であったが、中国人は中国バレーのために自分のすべてを注いでくれた「鬼の大松」を忘れてはいない。
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