1982年7月、北京首都空港では、車椅子の松田宏也氏が報道陣に囲まれていた。「私は日本人です。しかし、中国人である言ってもいいでしょう。なぜなら、私の体に流れているのは、すべて中国人民の血なのですから」。彼は記者に向かい、繰り返しこう言った。
1982年3月、日本の市川市登山隊は、「死の山」と呼ばれる中国境内のミニヤコンカ峰(標高7556m)に挑戦していた。
4月29日、登頂メンバーの松田氏と菅原氏は海抜7500m地点に到達するが、天候が急変し、強風と吹雪のために下山ルートさえ見失ってしまう。5月1日、麓のキャンプとの連絡も途絶えたが、悪天候のため、キャンプで待つ本隊は捜索隊を出すことすらできなかった。彼らが連絡を絶って19日目、登山隊は、二人が遭難したものと判断し、日本に帰国する。
5月19日、日本で松田氏の告別式が行われいたこの日、薬草を採りに山に入った中国のイ族の農民たちが、瀕死の状態の松田氏を発見する。農民の一人が9時間以上も山道を走り、地方政府にこのことを報告すると、発見場所に最も近い瀘定皮膚病予防治療医院は21人の救急チームを組織して、急遽現地に向かわせた。5月21日夜、松田氏が瀘定皮膚病予防治療医院に搬送されると、医院は「松田救急指揮部」を組織し、直ちに手術を行った。手術中、呼吸と心拍が一時停止したが、115分間に及ぶ蘇生術が施され、松田氏は死から救出された。
一命は取り留めたものの、松田氏は重度の凍傷を負っており、特に四肢には壊死が見られた。早急に、より設備の整った成都の病院に送らなければならない状態であった。しかし、病院のある磨西と成都は400km以上離れており、その間には標高3000mの二郎山が立ち塞がっていた。医師たちは車で松田氏を搬送することを決め、夜を徹してレジャー用のワゴン車を寝台車に改装した。26日早朝、車は成都に向けて出発し、その日の夜10時、成都市の四川医学院付属病院に松田氏は緊急入院する。
27日、松田氏の病状が悪化。診察で、敗血症による血管内凝血症(DIC)を併発していることが確認される。松田氏に再び生命の危機が迫っていた。専門家は協議の末、DIC治療と四肢の切断を同時に行うことを決定する。高いリスクを伴った手術は成功し、松田氏は完全に生命の危機を脱した。
四川医学院付属病院は、松田氏が入院していた45日間に、複数の診療科の専門医による合同診断を22回行っている。医師が松田氏に輸血した血液の総量は6050cc、これに磨西で輸血された分の6670ccを加えれば、彼の体内液量の2倍以上の量になる。松田氏が自分の体に流れている血はすべて中国人の血液だと言ったのはこのためである。中国を離れる前、彼は切断手術を受けた両手でペンを挟むように持ち、「日中友好万歳 松田宏也」と書いて、中国人民に対する感謝の気持ちを表した。
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