1984年、中日両国の囲碁界の協力で中日スーパー囲碁が始まった。その対局方式は、それぞれが主将一人を含む8人の選手を選抜し、団体勝ち抜き戦で勝負を決めるというもので、対局は中日両国の都市で交互に行われていた。
囲碁は唐代に日本に伝わった。記載によると、遣唐使の中には囲碁の学びに来た者もおり、唐の玄宗皇帝も度々日本の僧侶や留学生を囲碁の対局に召したとある。また、日本にも吉備真備が中国で囲碁を打ったという伝説が伝わっている。その後の長い歴史においても、両国の民間による囲碁交流は途絶えることはなかった。
1959年10月、日本自民党顧問の松村謙三氏が訪中団を率いて中国を訪れ、陳毅副総理と会談した。ともに囲碁ファンであった松村謙三氏と陳毅副総理は、以後、中日間の囲碁交流を進めていくことを約束した。その後、陳毅副総理は、日本棋院からは名誉七段の称号を、関西棋院からは七段をそれぞれ授与されている。
やがて陳毅副総理と松村謙三氏の尽力で、1960年に日本棋院の代表団が初めて訪中し、1962年には中国棋院の代表団が初めて日本を訪問した。また1964年には、29人の日本の有名棋士が、800万人の囲碁愛好者に日中国交正常化の署名活動に参加するよう呼びかけている。
両国の国交が正常化すると、囲碁界の交流は日増しに盛んになる。更に中日スーパー囲碁が開催されたことによって、この種の交流活動はブームにまでなった。
1997年までの期間で、中日スーパー囲碁は計11回行われた。対戦成績は中国の7勝4敗である。両国の棋士も互いの国で名前を知られるようになり、中国の聶衛平、馬暁春、劉暁光、曹大元、日本の小林光一、加藤正夫、大竹英雄、依田紀基の各棋士は、両国人民の間でスターのような存在になった。中日両国の囲碁交流を開拓した顧水如、呉清源、陳祖徳、木谷実、藤沢秀行の諸先輩も広く知られるようになり、人々もこの試合を通して、囲碁に関する知識を増やし、囲碁の魅力を知るようになっていった。
1998年以降、中日スーパー囲碁はNECカップ、富士通カップ、応氏カップに引き継がれ、両国囲碁界の友好交流が伝統として確立された。その後、韓国の棋士も参加するようになり、現在、囲碁の対局と交流の範囲は中日韓の三国に拡大されている。
「手談」の古称を持つ囲碁には、深遠な哲理と智慧が秘められている。中日両国人民の共通の趣味であり続けた囲碁は、両国の民間交流を促進する特殊な言語でもある。両国人民が囲碁という特殊な言語で交流するとき、その背景には両国が共有する千年に及ぶ文化交流の歴史が存在する。
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