第二次世界大戦後すぐ、米国が黙認する中で吉田茂内閣は「アジア版マーシャルプラン」構想を打ち出し、援助を通して東南アジア諸国を引き込み、共産主義を封じ込め、日本は「重要な役割」を発揮すべきとの考えを主張した。1966年に日本が戦後初めて主催した国際会議「東南アジア開発閣僚会議」で、日本は毎年GDPの1%を東南アジアに援助し、日本を中心とするアジア開発銀行を設立することを提案した。日本が東南アジアに介入するこの代表的な出来事から数えて、日本は50年近く東南アジア全域で活発な動きを見せている。
日本経済が上向いた1970-80年代、ベトナム戦争後に米国が東南アジアでの勢力を弱めたのに伴い、日本と東南アジアは急速に関係を深めていった。日本が打ち出した「雁行陣の効果」は、日本を「トップガン」とし、立ち遅れた生産能力を東南アジア諸国に移転させていくというものである。1990年代から、日本は東南アジア戦略を政治・安全問題に切り替え、主に東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)と安全保障対話に関して、力をつけ始めた中国と東南アジアで発言権争いをするようになった。日本の一部の官僚は「アジアの盟主」になる考えを示し、東南アジアを「主戦場」にしようとしている。日本の小泉純一郎前首相は、東南アジアを含む「自由と繁栄の弧」をつくる構想を打ち出した。しかし、日本の経済バブルが崩壊し、東南アジアも1990年代末に金融危機の打撃を受け、日本からの資本や援助が大幅に減少し、「自由と繁栄の弧」構想に賛同する者はごくわずかとなった。
日本は近年、東南アジアの一部の国と日本が中国との主権争いなどにおいて「同じ問題を抱える」状況を利用して互いの関係を近づけ、それに乗じて東南アジアに軍事力を導入しようとしている。昨年バリ島で開かれたASEANプラス3首脳会議で、野田佳彦首相はアジアの海上安全保障と多国間で協力する海洋フォーラムの設置を呼びかけ、南中国海問題を国際化させる動きを見せた。また、今年に入ってからベトナムやフィリピンが行う日本を南中国海に介入させる行動は、日本の考えと合致する。日本・メコン地域諸国首脳会議で採択された『日メコン協力のための東京戦略2012』に、朝鮮の衛星打ち上げに対する非難、日本人拉致問題への関心などメコン川流域と関係のない事項が記されたことは、日本の意図をはっきり示している。
中日競争、今後の舞台は東南アジア