今、日本のこうした悲しみは内外で2つの新たな動きがある。一つは、日本国内の政局と連動して、その矛先が日本政府に直接向けられていることだ。石原氏は先ごろ、国会で一人芝居の大立回りを演じ、自分は日本政府に立ち向かうため来たのだと明言した。これは日本の弱腰外交に対して発した不満であり、「政権奪取」のための世論づくでもある。これは反米、反中に比べより「お前は死ぬ、俺は生きる」的な殺し合いだと言える。
もう一つは、これまで歴史や台湾といった問題で悲しみを直接発していた石原氏ら保守的人物が、このところ大きく方向転換して釣魚島を利用して外に向け面倒を起こすようになったことだ。こうした変化は中日関係をより錯綜、複雑なものにした。性質のまったく異なる矛盾がたびたび同列に論じられているのだ。名古屋市の川村剛市長は「南京大虐殺」について謬論を発表したが、それに続くのが、石原氏がしゃべり立てる島購入の話題だ。釣魚島は領土問題として、本来は国と国との間の正常な紛争ありながら、なんと「ポピュリズム」の印を押されてしまった。
「石原茶番劇」の行く末にまかせていれば、「ポピュリズム」が日本の大衆を誤った方向へと導くことになり、それはまともな道ではない。依拠する法理がなく、サポートする力もない偽の命題をしゃべり立てることで、日本人の目はふさがれてしまい、第2次世界大戦史観や人類の平和、正義の訴求にかかわる根本的原則はむしろ問いかける暇がなくなる。このままでは、石原氏が日本の厄介者になるだけでなく、日本もアジアの厄介者になってしまう。
(庚欣・日本JCC真に本研究所副所長)
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年6月15日