明・清の皇室の陵墓


  明の顕陵は、明の憲宗朱見深の次男で明の世宗嘉靖帝朱厚聡の父親の朱祐とその妻の墓地である。朱祐は嘉靖帝が即位する前に逝去、「献」という贈り名を得て「興献王」と呼ばれている。その後、嘉靖帝は朱祐を「興献帝」、その妻を「恭睿皇后」と封じた。二人は興王府の所在地である長寿の松林山(現在の湖北省鐘祥)に合葬され、墓の名前は「松陵」、普通は「顕陵」である。顕陵の敷地面積は136.47ヘクタール、周りは高い堀に囲まれ、皇城とも呼ばれる。顕陵の築造は明の正徳14年(1519年)からはじまり、21年がかりで嘉靖19年(1540年)に竣工した。顕陵の建築様式は北京郊外の明の十三陵にそれに似ているものの、独特の風格をもっている。一つ一つの明陵よりも規模が大きく、中国の中南地区唯一の明陵で、「中国明代の十五陵」と呼ばれている。1985年に全国重点文物に指定され、保護されている。

  清の東陵は清王朝が山海関以南に入ってから築造された初の皇帝皇后陵である。北京市から125キロ離れた河北省遵化市馬蘭峪に位置し、敷地面積は2500平方キロ、後竜と前圏の二つの部分に分かれる。後竜は陵の後にある長城から北へ少祖山と霧霊山を経て、承徳の近くまで延びている。西の密雲から東の遵化まで、山々が起伏し、風景が大変美しい。前圏は陵の所在地で、敷地面積は48平方キロ、南に大紅門、東西に長さ20キロ余りの「風水壁」がある。清の東陵は順治18年(1661年)に築造をはじめ、皇帝、皇后、妃、王女の陵墓が合わせて14カ所もある。そのうち清が山海関以南に入ってからの最初の皇帝順治帝の孝陵、2代目の康煕帝の景陵、4代目の乾隆帝の裕陵、7代目の咸豊帝の定陵、8代目の同治帝の恵陵もあれば、さらにまた孝荘、孝恵、孝貞(慈安)、孝欽(慈禧)らの皇后の陵墓が4カ所、景妃、景双妃、裕妃、定妃、恵妃らの妃の陵墓が5カ所ある。順治帝を埋葬した1663年から、同治帝の最後の妃を埋葬した1935年までの272年間に、皇帝5人、皇后15人、妃136人、王子1人と合わせて157人がここに埋葬された。

  清の西陵は北京市から西へ約100キロ離れた河北省易県永寧山の麓にあり、山々に囲まれ、山が起伏し、気迫にみちている。その敷地面積は清の東陵ほど大きくはなく、埋葬されている皇帝の数も少ない。雍正8年(1730年)に築造をはじめ、清が山海関以南に入ってからの3代目の皇帝である雍正帝を埋葬した泰陵、5代目の嘉慶帝を埋葬した昌陵、6代目の道光帝を埋葬した慕陵、9代目の光緒帝を埋葬した崇陵、孝聖憲皇后(乾隆帝の母親)の泰東陵、孝和睿皇后(嘉慶帝の皇后)の昌西陵、孝静成皇后(道光帝の妾)の慕東陵、ほかに妃の陵が3つ、親王と王女の陵が4つ、合わせて14カ所ある。4人の皇帝、9人の皇后、57人の妃および親王、王子と王女と合わせて76人がここに埋葬されている。そのほかに10代目で、中国のラスト・エンペラーといわれる宣統帝(日本では溥儀として知られている)のために陵墓を築造しようとした。清王朝が滅びたため、未完成のままで終わった。2000年に明の顕陵、清の東陵と西陵が国連のユネスコによって『世界の文化遺産』に登録された。

 

 

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