高句麗の王城、王陵および貴族の古墳


  高句麗王朝は西暦前37年から668年までのもので、かつて中国東北地域でかなり大きな影響をもつ、人口もかなり多かった少数民族の王朝の一つであり、北東アジアの歴史の発展過程において重要な役割を果たしたことがある。高句麗王朝は当初、現在の遼寧省桓仁県一帯に樹立され、西暦3年に都を国内城(今の吉林省の集安市)に移し、427年にはさらに平壌に移した。桓仁と集安は高句麗王朝の初期・中期の政治、文化、経済の中心であったところであり、465年にわたって高句麗の文化遺産がもっとも集中的に分布している地域であった。
  20世紀90年代以来、中国の考古学関係者は集安、桓仁の多くのところで高句麗の王城と貴族の古墳の遺跡を発掘し、自然条件が原因で損傷をこうむった王陵に対し修復工事を行い、それによって高句麗の豊富な文化の内容と輪郭が次第にはっきり見て取れるようになった。
  高句麗の歴史的文化遺産を保護するため、中国政府は2002年に集安市で『高句麗の王城、王陵および貴族の古墳の保護に関する企画』を実施し始めた。この企画はあわせて国内城、丸都山城という二つの高句麗の都城、12カ所の王陵と好太王碑という2カ所の付属築造物、27カ所の貴族の古墳を含む43カ所の保護区を画定した。「高句麗の文化遺産の真実性と完全性を保護する」ことは集安市の経済と社会発展の重要な基盤となった。
  今回『世界遺産リスト』に組み入れられた高句麗王城、王陵および貴族の古墳には、主に五女山城、国内城、丸都山城、12カ所の王陵、26カ所の貴族の古墳、好太王碑と将軍墓の1号副葬塚が含まれ、吉林省の集安市と遼寧省の桓仁県に位置している。
  世界遺産委員会が国際古跡遺跡理事会に委託して高句麗プロジェクトについて行った視察と評価結論によると、高句麗プロジェクトは『世界遺産リスト』の6つの基準の中の5つに合致し、それは、人類の創造と英知による傑作であることを具現している、古代史の早期に築造された都城と古墳として、漢民族のその他の民族文化に対する影響力を反映している、およびそのユニークな風格を持つ壁画芸術、すでに消えてなくなった高句麗文明――高句麗王朝が石、泥などの材料で築造した都城が後世に影響を及ぼしたことも具現している、人類の創意性と大自然との完全な結合を展示しているなどが含むものである。

 

 

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