文=奥井禮喜
5月3日憲法記念日、大新聞(朝日・読売・日経)の社説はいずれ劣らずつまらなかった。相変わらず憲法改正を巡る主張が軸になっている。憲法がどのように定着しているのか、丁寧に分析したものが読みたかった。
たとえば、いわゆる《日米同盟》論である。鈴木善幸首相が初めて日米同盟という言葉を使った(1981.5)。当時、同盟が軍事同盟を想起させ、憲法の精神からすれば軽率だという批判があったはずだ。
続いて中曽根康弘首相が《日米運命共同体》、《1000海里シーレーン防衛》、《日本列島不沈空母》、《四海峡封鎖》、《武器輸出三原則緩和》(1983)など次々に発言して物議をかもすが、喉元過ぎれば熱さを忘れるの類。
政治家の頂点に立つ人が自分の考えを次々にわが国の公式見解にしてしまう。さほど熟慮しなくても、憲法の精神に違反しているのは間違いないが、経済好調当時、本気で怒りの声が上がらない。
要するに憲法を読んで、オツムの訓練した人が多くはなく、日々のメシと無関係であればどうってことはないというapathy(政治的無関心)の国民的事情が背景にあったと考えるしかないのである。
リースマン(1909〜2002)は米国の社会学者で、「孤独な群衆」「個人主義の限界」などを発表した。「全体主義の限界」という短い論文がある。痛切に全体主義への警鐘を鳴らしている。ナチスやスターリニズムを考察した。
そのなかで、全体主義に対する一つの防衛策としてapathyの意義!を指摘している。なるほど、外国に対する侵略などを試みたい権力者がいても、皆が(無関心で)その提案に乗らなければ動けない。