パスカル(1623〜1662)は「人間は運動体である。」と指摘した。然り。ゴビ沙漠に佇み、東北のガレキ野に直面したとき、この言葉が突き上げてきた。在るべきものがなく、在ったものが消えた。虚無が形になったみたいだ。
運動体であるならば、何か行動せねばならぬ。何のためにか? 生きるために、何らかの行動に立ち上がらなければならぬ。そのために学ぶ。学びは学生時代の専権・特権ではない。生涯勉強して力尽きるべし。
パンタ・レイ、有為転変、森羅万象悉く変化して止まない《私の》世界を生きていくためには、メシが食えればよろしいのではない。メシは活動するためにこそ必要なのだ。その活動は有意であり、有為でありたい。
知識を得る。オツムのよい人はどんどん知識を蓄える。知識至上主義は自分に有意であっても、他者や社会の有為ではない。知恵持ちになってひそかにニタニタ、盗まれぬように地下に埋めるのでは美しくない。
知識は、他者や社会の有益として発揮されるとき、おおいなる愉悦に浸られる。勉強した事柄は他者に供したい。それが他者を動かし、他者また発奮する。知識は玉突き効果が出てこそ価値を生む。
章炳麟(1869〜1936)は民国革命に思想的貢献をした。「大独は必ず群する。」とした。群は独(個人)からなる。群しないのは個性に価しないから、その指に他者が止まらないのだ。彼は西欧個人主義に共通していた。