文=奥井禮喜
科学・技術抜きに現代人の生活は存在しない。
科学・技術の門外漢であってもこの程度は知っている。少なくとも《科学・技術》という言葉は身近な存在である。にもかかわらず大方の意識・気風は科学・技術と疎遠であろう。
携帯電話の普及は目覚ましい。わずか四半世紀前、今日のような携帯電話が登場するとは考えてもみなかった。携帯電話に凝縮された科学・技術の粋を思えば、しばし呆然とするほどである。
お客様気分でオモチャを使っているつもりが、実はオモチャに使われているのかもしれない。某日、某OBはいつものごとく黄昏の巷をゆらゆら漂っていたが、自分の現在地を娘に捕捉されていたことを知り唖然とした。
その話を居酒屋カウンターで聞いた諸氏は、大笑いしたが、なぜか沈黙してしまった。ある目的に好都合であっても、どこかに別問題が発生するというのはしばしばある。
現代の科学・技術が人々の生活を支えている。最新機器の便利さを享受しつつ、それが存在しなかった当時といちいち比較するようなことはまずないから、それがあって当然、いわば科学・技術の粋は空気のようなものである。
お客様は神様だ。とはいえ便利を享受して幸福なユーザー気分だけでよろしいか。誰かが言った。「人は自分が理解しないものを支配できない。」この警句は科学・技術に関してもけだし充当するに違いない。
メディアは原発事故以来、関係者を「ムラ意識」が支配していると痛烈批判した。少し考えてみれば、ムラ意識は原発の専売特許ではない。そもそも誰でも自分が直接関わっていること以外に詳しいわけではない。