文=奥井禮喜
某日某酒場カウンターにて、某紳士がため息交じりに言われた。「酷い政治になっていますな。今まで政治を身に詰まされるような思いで考えたことはなかったのに----最近は心配でなりませんよ。」ううむ。
かつて自民党時代には任せて「安心」が政権党の宣伝文句で、かくして戦後60年の自民党政権が継続した。とはいえ、最近マスコミが吠えまくる財政危機はすでに1975年からである。「財政危機は一日にしてならず」。年金も政府自民党は《100年安心年金》を喧伝していた。
目下の政治がまともに機能していると安心している国民はまず存在しないだろう。紳士に私は「安心の霧の向こうで心配がぐんぐん育っていたわけですよ」と言いそうになったけれど飲み込んだ。だいぶ酩酊されていた。
戦後67年、民主主義憲法66年といえば短くはない。にもかかわらず紳士の感懐には、信頼して任せてきたのに当てが外れたという恨み節が表明されている。いわば「由らしむべし、知らしむべからず」の幽霊を見る。
いかに立派な憲法を掲げていようと、所詮それは文字に過ぎない。多くの会社で成果主義を掲げつつ、少しも成果が上がらなかったのと同様、法律にせよ制度にせよ、すべての関係者がその気にならなければ空文だ。
1980年代のリクルート事件以後、政界における大々的汚職は露呈していないが、かつて国民が政治家に期待したのは清廉潔白という人格であった。汚職露見すれば人を代えて自民党政権が続いたのであった。